『奇跡講座入門 講話とQ&A(ケン・ワプニック/著)』より抜粋 P90~
自分自身を防衛する必要が大きくなればなるほど、私は自分に罪があるという事実そのものを強化することになります。
これはまた、自我に関して理解すべき重要な原則の一つでもあり、おそらくそれを最も明確に述べているのが、「テキスト」の中の次の一文です。
「防衛は、それが防ごうとしているまさにそのことを行う」(T-17.Ⅳ.7:1)。
すべての防衛の目的は、自分自身の恐れから自分を守ることです。
もし私が恐れていなかったなら、防衛など必要ありません。
けれども自分が防衛を必要としているという事実そのものが、自分は怖がらなければならないと告げています。
なぜなら、もし私が恐れていないのなら、わざわざ防衛などする必要はないからです。
私が自分を防衛しているという事実そのものが、私が恐れているという事実と、自分は有罪なのだから怖がるべきだという事実を強化しています。
ですから、自分を恐れから守ってくれるはずの防衛そのものが、恐れを増強しているのです。
したがって、自分自身を防衛しようとすればするほど、私は自分が自我であるということ、つまり、罪深く、罪悪感と恐れを抱いている存在であるということを、自分に教えていることになります。
自我は本当に抜け目がありません。
自我は、私たちに自分を防衛しなければならないと確信させますが、私たちはそれを実行すればするほど、ますます罪悪感にさいなまれるようになるのです。
自我は、私たちに自分の罪悪感から身を守るためにはどうすればいいか、数多くの方法を教えますが、自我が差し出す保護そのものが、この罪悪感を増強するものに他なりません。
だから、私たちはただぐるぐると回り続けているのです。
「ワークブック」には、「防衛しないことの中に、私の安全がある」(W-pⅠ.153)という素晴らしいレッスンがあります。
もし私が、自分は真に安全であり、自分を真に保護するのは神であると本当に知りたいのなら、そのための最良の方法は、自分自身を防衛しないようにすることです。
だから、私たちはイエスの最後の日々について語る福音書の中に、彼は自分を一切弁護しなかったと伝える文面を見いだすのです。
捕らえられたとき以来、あなどられ、むち打たれ、迫害され、殺されるまでの間ずっと、イエスは自分を弁護しませんでした。
そして、そのときイエスが言わんとしていたことは、「私は防衛を必要としていない」ということでした。
なぜなら、「ワークブック」の中にあるように、「神の子は、彼の実相の真実から身を守る防衛を必要としてはいない」(W-pⅠ.135.26:8)からです。
私たちが自分が誰であるのか知っていて、また、私たちの父、つまり天国の父なる神とは誰であるのかを真に知っているとき、私たちは自分自身を守る必要はありません。
真理に防衛は必要ないからです。
けれども、自我の思考体系の中では、私たちは保護されることが必要だと感じ、したがって、常に自分を防衛することになります。
ですから、この二つのサイクルは、自我の手口全体を維持するという役目をしっかりと果たしているわけです。
罪悪感を感じれば感じるほど、私たちは攻撃を強めます。
攻撃すればするほど、ますます罪悪感はつのっていきます。
そして攻撃を続けると、予測される処罰や反撃から身を守ろうとして自分を防衛する必要を、ますます感じることになります。
そして、そうした防衛そのものも、また攻撃に他なりません。
0 件のコメント:
コメントを投稿