自分へも他者へも絶対的に信をおくこと。
今回、彼女が与えてくれたテーマはこれ。
全力で向き合いたいと思う。
祖父とのマッサージの時間。
毎日送らせてもらうレッスンメールの相手。
職場での自分や上司。
信をおくとはどういうことか、よくわからなくなっている自分がいる。
それでも、観ようとしてみようと努力しつづけること。
聖霊に尋ね続けること。
自分へも他者へも絶対的に信をおくこと。
今回、彼女が与えてくれたテーマはこれ。
全力で向き合いたいと思う。
祖父とのマッサージの時間。
毎日送らせてもらうレッスンメールの相手。
職場での自分や上司。
信をおくとはどういうことか、よくわからなくなっている自分がいる。
それでも、観ようとしてみようと努力しつづけること。
聖霊に尋ね続けること。
彼女の自我に対して、ずっと腹をたてていた。
自分は辛いというアピールだけをして助けてもらうのを待っている姿に。
助けがほしいなら、辛くて誰かと一緒にいたいなら、そのままストレートに表現をした方がよほど潔いのに、と。
でも、その姿は、自分自身と聖霊との関係でやっているパターンなのかも。
全面的に降伏できなかったり、助けてと素直にお願いできなかったり。
彼女の中に、半端ない防御と弱味を見せてはならないという恐れを見た気がする。
愛を求める叫び。
火傷をしてから特に、ものすごく揺らいでいる自分、静かな時間をもとうもしない自分がいる。
これまでは、なんとかそこから脱け出さなくちゃ、自我にいる自分はだめだと裁いてきたと思う。
でも、今はちょっとだけ違っていて、真の自己(あるいは聖霊)に信をおき、もがいている自分を見ながら待っている感じ。
ちゃんと戻れるって安心している部分が今までと違うのかも。
真の自己(神聖性)を信頼して待つことと、目の前の人の神聖性を信頼して、ただ黙って待つことは同じなのかもしれない。
目の前に差しだされた人の神聖性を見ることや信頼することがわからないと問いを発していて、今、答えを見つけかけてる気がする。
聖霊はいつも例外なく答えてくれるみたい。
二荒山神社。
師より、聖霊というパートナーに対して恐れや裁きを無意識に持っている部分を越えさせてもらうといいかもねってアドバイスもらった。
参拝してから、どこか聖霊を信頼しきれてない部分、突然頼りなく不安に陥りそうな感覚、無意味なのではないかというすりぬけていく感覚、色んなものが襲い始めた。
それでも、もう自我の声には耳を傾けない意志力をもとうって固く決意してる。
だから、何を感じても、そこに対して疑い、知覚を信用しないことに注意を注いでみようと思う。
師からのがんばれってネコちゃんのスタンプ、ものすごく励まされた。
特別性が綻びを見せ始め、師との関係が変わったように感じるのは気のせいだろうか。
以前よりも穏やかでゆるやかで自由な感じで心地よい。
でも、つい頼りすぎていつも忘れてしまうことがある。
師という人間の肉体や枠組みでなく、スピリットを見ようとすることを。
私、いつも教えてもらおう、得ようってことにいきがちだ。
助けも情報も言葉にならない時間もいっぱいもらってしまうけど、でも、そんなことよりもやっぱり身体としてみないというとこに立ちたい。
さしだされるテキストも火傷も人との関係も、今のテーマはきっと身体としてみないこと。
鹿島神宮にいく機会があった。
奥宮への道を歩きながら、目覚めに対してどこか不安に感じたり、行き詰まりという錯覚を感じているのかもしれないなぁって思った。
神社を訪れることはなにかを祈りにいくためというよりも、思い出すためなのかもしれない。
神域内で何時間かを過ごす中、なにをするわけでもなくリラックスさせてもらう。
その無目的な時間の中で、心が静まっていき、本来の真の自己へ問いを発し、還らせてもらう、そんな感じ。
心をあわせること。
だから、神域という神の懐にお邪魔させてもらい、そこで過ごす時間が好きなのかも。