2015年12月17日木曜日

与えることと受けとることはひとつ

To Give And To Receive Are One In Truth.

「与える」ことと「受けとる」ことは同じことであり、同時に起こります。

私は、自分が与えるものだけを受けとることができます。

これは、どんな状況、どんな人間関係においても真実です。

今日一日、私は、やすらぎと愛(天意)だけを受けとりたいので、今日出会うすべての人に、心の中あるいは言葉にして、こう言います。

私は、あなたにやすらぎと愛(天意)だけを差し出し、そして、自らもやすらぎと愛(天意)だけを受けとります。

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奇跡講座 ワークブック編(中央アート出版)
レッスン137より抜粋

『私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではありません。』

癒すこと、赦すこと、そして、悲嘆の世界のすべてを、悲しみが侵入できない世界と喜んで交換することーこの三つが、聖霊に従うようにとあなたに促すための聖霊の手段である。

聖霊の優しいレッスンは、どれほど簡単に救済があなたのものとなるかを教えてくれる。

また、いかにわずかな練習をするだけで、自らを死の囚人とするためにあなたが作り上げた法則が聖霊の法則に置き換えられるかを教えてくれる。

聖霊があなたから求めるわずかな協力は、これまであなたに苦しみをもたらした一切からあなたを自由にするためのものであり、あなたがそれを差し出すとき、聖霊の生命はあなた自身の生命となる。

そして自分自身が癒されるままにするとき、周囲の人々も、心に思い浮かぶ人々も、あなたが接する人々も、何の接触もないように見える人々も、すべて自分とともに癒されることがわかるだろう。

癒しの到来を受け入れるとき、あなたはそうした人々のすべてを認識することはないかもしれないし、自分が全世界にどれほど大きなものを差し出しているのか実感できないかもしれない。

しかし、あなたは決してひとりだけで癒されるのではない。

あなたが癒されるとき、あなたが受け取る贈り物を、数限りない人々が受け取るだろう。

2015年12月12日土曜日

人との縁というものは本当に不思議だ。

これまで、一体どれだけの人々にタイミングよく助けをさしだされてきたことだろう。

もうダメ、限界というときに、絶妙なタイミングで現れてくれる人々。

自分の意図や思いとはまったく関係なく。

一年間隣で在り様を学ばせてくれた上司、仕事の場において喜びがあふれている先輩、助けがほしいと願った直後に目の前に現れた師、いつもまなざしを向けてくれる人、自分が真に願っていることにもう一度気づかせてくれる人。

これらの助けや出会いは、自分の勝手な願いや意図や思惑というものが一切ないときに起こっている気がする。

そして、必ず、プラスであれマイナスであれ、自分がこうだと予測や期待したり決めつけていることの範疇を完全に超えていることは確かだ。

価値判断や勝手な願いなく毎瞬を生きるとき、与えられていないことはなく、予想外に降ってくるものに対して心から感謝し、本当に喜んで無邪気に受けとっていけるのかもしれない。

今はただ、いただく縁というものを拒絶せず、ひとつずつ無邪気さの中で受けとっていきたいと心から思う。

過去においても現在においても、さしだされているご縁に対し、こんなのは自分が望んだものじゃないと拒絶してきたこと、いっぱい。

まずはそこからひとつひとつを丁寧にやっていくことかも。

2015年12月5日土曜日

大丈夫

『不死というあなたの現実』より抜粋

大丈夫、夢だよ。

怖がらなくていいんだよ。

あなたが見ているのは真実ではない。

あなたが感じている問題や不安や恐れや苦痛は、ほんとうはみんな馬鹿ばかしいんだ。

だってそんなものを感じる必要はないのだからね。

それに、どれも現実ではない夢のなかで起こっている。

最初にそんな夢を生み出した馬鹿げた考えが引き起こしているんだよ。

ほら、この声が聞こえたら、もうあなたは目が覚めかけている。

真実は夢のなかでも聞こえるのだから。

生きる力

毎日を生きる気力が枯渇してしまうこと、しばしばある。

そんなとき、生命の喜びにふれたり、幻想の世界に取り込まれていない人々にふれると、枯れていた生命の泉が再び潤うような満ちあふれるような、そんなことを感じる。

鮮明に覚えているのは、彌彦神社で初めて東儀秀樹の演奏を聴いたとき。

理性を超えて伝わってきたものは衝撃だった。

もう一度、一生懸命生きようって決意していた。

そして、今回も。

生きる気力も、なにかをやりたいと思う力も失せつづけてしまい、光がまったく見えない日々。

そのタイミングで上司の話をいっぱい聴かせてもらった。

物事をどう見ていて、どうありたいか、そんな話をいっぱい。

その姿勢に、本当に不思議なことに力や希望がわいてきた。

目の前のこと、一生懸命やろうって思えた。

上司と共にいられる時間、めいっぱい吸収したいって思った。

わたしも、上司のような在りようで生きたい。

2015年12月2日水曜日

偽りのアイデンティティ

誠実に真摯にコースに取り組んでいた頃の自分のブログに、予想外に励まされた。

もう一度、手をのばしてみよう。

ここ数日、何気ないふとしたことで怒りが頂点にいってしまい、戸惑っている。

そのたびに、なんとか赦しに立ち返ろうとだけはし、人前で滅茶苦茶なふるまいだけはかろうじて免れられたという危うい状態だ。

ひとつ気づいたこと。

「自我=自分ではない」ということに対して、猛烈に怒り狂っている部分がある。

自分の成果、自分の性格や言動、自分の努力、こうしたことがなにひとつ肯定されないから。

奇跡のコースは、そうしたものとはまったく関係なく、神の子としてのわたしたちのアイデンティティゆえに尊いと伝えているようだ。

これまでの人生においては、真逆のことをやりつづけてきた。

他者からの評価がほしい。

他者からの評価が得られない自分には価値がない。

自我という偽りのアイデンティティがなくなること、これほどまでに恐れているとは知らなかった。

今、わたしは神と戦っている。

そして、打ち負かしたいと思っている。

どうか今度こそ、その幻想を手放すことができますように。

奇跡のコース テキスト編
第16章 「幻想を赦す」

2015年5月19日火曜日

自分へも他者へも絶対的に信をおくこと。

今回、彼女が与えてくれたテーマはこれ。

全力で向き合いたいと思う。

祖父とのマッサージの時間。

毎日送らせてもらうレッスンメールの相手。

職場での自分や上司。

信をおくとはどういうことか、よくわからなくなっている自分がいる。

それでも、観ようとしてみようと努力しつづけること。

聖霊に尋ね続けること。

2015年5月17日日曜日

助けを求めること

彼女の自我に対して、ずっと腹をたてていた。

自分は辛いというアピールだけをして助けてもらうのを待っている姿に。

助けがほしいなら、辛くて誰かと一緒にいたいなら、そのままストレートに表現をした方がよほど潔いのに、と。

でも、その姿は、自分自身と聖霊との関係でやっているパターンなのかも。

全面的に降伏できなかったり、助けてと素直にお願いできなかったり。

彼女の中に、半端ない防御と弱味を見せてはならないという恐れを見た気がする。

愛を求める叫び。

2015年5月9日土曜日

信をおくこと

火傷をしてから特に、ものすごく揺らいでいる自分、静かな時間をもとうもしない自分がいる。

これまでは、なんとかそこから脱け出さなくちゃ、自我にいる自分はだめだと裁いてきたと思う。

でも、今はちょっとだけ違っていて、真の自己(あるいは聖霊)に信をおき、もがいている自分を見ながら待っている感じ。

ちゃんと戻れるって安心している部分が今までと違うのかも。

真の自己(神聖性)を信頼して待つことと、目の前の人の神聖性を信頼して、ただ黙って待つことは同じなのかもしれない。

目の前に差しだされた人の神聖性を見ることや信頼することがわからないと問いを発していて、今、答えを見つけかけてる気がする。

聖霊はいつも例外なく答えてくれるみたい。

2015年5月2日土曜日

揺らぎ

二荒山神社。

師より、聖霊というパートナーに対して恐れや裁きを無意識に持っている部分を越えさせてもらうといいかもねってアドバイスもらった。

参拝してから、どこか聖霊を信頼しきれてない部分、突然頼りなく不安に陥りそうな感覚、無意味なのではないかというすりぬけていく感覚、色んなものが襲い始めた。

それでも、もう自我の声には耳を傾けない意志力をもとうって固く決意してる。

だから、何を感じても、そこに対して疑い、知覚を信用しないことに注意を注いでみようと思う。

師からのがんばれってネコちゃんのスタンプ、ものすごく励まされた。

師との関係

特別性が綻びを見せ始め、師との関係が変わったように感じるのは気のせいだろうか。

以前よりも穏やかでゆるやかで自由な感じで心地よい。

でも、つい頼りすぎていつも忘れてしまうことがある。

師という人間の肉体や枠組みでなく、スピリットを見ようとすることを。

私、いつも教えてもらおう、得ようってことにいきがちだ。

助けも情報も言葉にならない時間もいっぱいもらってしまうけど、でも、そんなことよりもやっぱり身体としてみないというとこに立ちたい。

さしだされるテキストも火傷も人との関係も、今のテーマはきっと身体としてみないこと。

神社

鹿島神宮にいく機会があった。

奥宮への道を歩きながら、目覚めに対してどこか不安に感じたり、行き詰まりという錯覚を感じているのかもしれないなぁって思った。

神社を訪れることはなにかを祈りにいくためというよりも、思い出すためなのかもしれない。

神域内で何時間かを過ごす中、なにをするわけでもなくリラックスさせてもらう。

その無目的な時間の中で、心が静まっていき、本来の真の自己へ問いを発し、還らせてもらう、そんな感じ。

心をあわせること。

だから、神域という神の懐にお邪魔させてもらい、そこで過ごす時間が好きなのかも。

2015年4月28日火曜日

ダメなわたしを演じてみる

「自分はダメ」というオチ。

師より、なにかそのアイデンティティをもつことで守れる(メリット)と自我が思っていることがあるかもねっていうヒントをもらってる。

今は職場において、ダメな自分を攻撃し、裁き、痛みを感じてるから、その知覚を疑ってみようというところ。

師と話をしたからなのか、ダメでできない自分が真の自己ではないと知りながらなら、思いっきりできない社員をやってみてもいいんじゃないかって思うようになった。

大切なのは、それが真実の自分ではないと立ち返らせてもらいながら、演じきること。

なんだかちょっとだけ楽になったし、キャパがちょっとふえたみたい。

上司には、あたたかいまなざしの中でダメな私を存分にやらせてもらえることに、なにより感謝している。

2015年4月22日水曜日

ちょっとへんな話

便秘(う○ちがたまること)と感情がたまることは同じかも。

先週は突然涙が溢れだして止まらないってことが何度もあった。

今夜は、仕事が終わっても、会社の最寄り駅まで歩けないくらい気力がでず、珍しく友人にひたすら話を聞いてもらい、感情が限界を迎えてたって気づいた。

この数週間、ひどい便秘で苦しかったけど、感情がなにかの形ででるたびに、う○ちもその分だけちょっとでるみたい。

突然風邪をひいたり、体温調整がうまくできなかったり。

職場の人々に色んなことを感じていたのに、全部押し込めてた。

やっぱり根底にあるのは「無価値観」。

Yさんに見下されて無視されること、後輩にも下に見られること、仕事量が一気にふえて手に負えないこと、ひとりだけ職場で入り込めず会話する相手がいないこと、ひとりだけ情報を教えてもらえないこと。

私はいてもいなくても同じで空気みたいだし、役立たずという視線を痛いほど感じてしまう。

それらの無価値観を感じていることに気づけたとき、ちょっと安堵した。

これでやっと聖霊に助けを求められる。

ワークブック

友人が再びレッスンを始めるきっかけをくれた。

テキストを読むことよりも、レッスンを行うことの方がちょっと億劫で、なかなか再開できなかった。

今はレッスンメールを送らせてもらえるし送ってもらえるから、やろうって思えてる。

きっと赦しと同じで、実際に適用することが習慣となってないから、レッスンを苦とか億劫に感じるのかもしれない。

一緒に進んでくれる仲間がいることはずいぶんと励まされる。

なにがあっても、レッスンメールを送り続けることをやめないでいたい。

彼には心より感謝してる。

ありがとう。

2015年4月10日金曜日

裁き

会社で与えられたせっかくの赦しの機会、明らかに無駄にしてしまってる。

定期的にお休みを繰り返す彼女を、言葉にださなくても責めている。

彼女のせいで、わけわからない電話がふえる。

彼女のせいで、身体がしんどすぎたときも休めなかった。

彼女のせいで、半端なく仕事がふえた。

彼女のせいで、みんなぴりぴりしてる。

手続きするか、いい加減でてこいよ!

一日中仕事しながら、どこかで苛々したり、悪態をついたり。

自分の中のこれらの思いや裁きは、明らかに自分に対してもやっている。

よく考えてみれば、一昨日どん底に落ちたのも同じこと。

きっと聖霊にゆだねたときには、彼女はわたしのこの上ない救い主になる。

今からでも遅くないから、彼女のスピリット(神聖性)を見れるようお願いしてみよう。

観るにあたってわきあがるものは取り消しを依頼しよう。

2015年4月8日水曜日

評価の神

「評価」を明確にわかる形で伝えられた。

あまりに衝撃すぎて、表情筋が動かなくなった。

明日からどんな顔して会社に行けばいいんだろう。

期待に応えられなかった。

むしろ大きく下回った。

再度休職となる勢いで。

自我はそこに対し、わたしは無価値であり、存在そのものが許されないと思わせようとする。

消えたくて、居たたまれない気持ちでいっぱい。

でも、ここから脱出するには、ちゃんと恐れを直視し、自分で手をのばそうとするしかないことは理解している。

師がどん底まで突き落としてくれたから、痛いほどよくわかる。

今夜は道端のお花たちに励まされ、KOKIAの「生命の光」に涙し、なんとか生きてる。

今週はあと2日、がんばれ。

2015年4月7日火曜日

待つこと

師のまねをして、アボガドの種を育ててる。

水につけて、早一週間弱。

毎日水をかえながらも、外側からはまったく変わらないように見え、早く〜って思ってしまう。

そして、本当に大丈夫かしら、間違ってないかしら、とも。

奇跡のコースやめざめに対しての姿勢とまったく同じ。

焦っちゃいけない。

まなざしを向けて待っててあげなきゃ。

アボガドの種も、内側ではどんなことが起こっているかは外からはまったく見えない。

でも、まなざしを向け、水をかえてあげることで、ある日ひょっこり発芽する。

このところ落下気味かつ赦しに向かえない自分がいる。

そして、めざめの過程を辿っているのか不安に陥ることもしばしば。

それでも、自分の中で本当はなにが起こっているのかを知ることはできないし、ただまなざしを向けて待っててあげようと思う。

今日は、もう一度手をのばしてみようかなぁという思いがひょこっと顔をだしはじめた。


2015年4月6日月曜日

恐れにじたばた

一日に何度もやってくる目眩や頭痛にちょっぴり不安で心細かったこのところ。

たった数分の静かな時間さえ作ろうとしていなかった。

今夜、お風呂の中でいろんなことをふりかえってみた。

仕事のこと、身体のこと、人間関係。

「感じていること、こうだと思っていることは本当ですか?」って問いを発してみる。

いかに自分がじたばたしているか、出来事や恐れを実在するかのようにしているか、はっとした。

いついかなるときも、この瞬間にも存在しつづけている穏やかさにふれようとしてみよう。

よくわからないけれど、今夜は、実在の穏やかさ、脅かされない揺るぎなさが存在していることだけはなんとなく感じた。

そして、師が戻ってきてくれて嬉しいと同時に、また無意識の中で頼ろうとしている自分がいる。

助けをもらうことは悪いことじゃない。

でも、自我の好き勝手に相手を見てしまうことは悲しいこと。

もう一度、心から手をのばしてみよう。

もう一度、リセットしてみよう。

2015年4月2日木曜日

邪魔だてしないこと

〜『覚醒へのレッスン』より〜

罪のなさは、法則や方法や世界に対する思考によって縛られていません。

自由です。

信頼と共に次の一歩を踏み出すなら、命が命を支えてくれます。

充実感と幸福感は、判断を下さないシンプルな姿勢と愛の放射から生じます。

また、この世界が何のためにあるかについて、知っているつもりのアイディアを手放すことによって生まれます。

その旅は、単に、真に存在しているものに道を譲る降伏です。

あなたが風向きを支配しようとするのをやめるとき、神の静寂の羽根が、あなたのもとへ優しく訪れます。

あなたとは、神聖な心がじゅうぶんにくつろいでいる状態です。

自らの深い内側にある、あなたという存在にひたってください。

親愛なる兄弟たちへたくさんの祝福を

デイヴィッド

2015年4月1日水曜日

聖霊からの言葉

聖霊が、わたしの口を使ってどちらもに言葉をくれたとき。

受けとれたのはたった数回だけど、そのメッセージは忘れられない。

最近は疲れすぎて人の言葉が入ってこなかったり、いろんなことをすぐに忘れてしまう。

にも関わらず、聖霊がもたらしてくれたときは、その言葉も空気も場面も、くっきり明確にアクセスできる。

その邪魔立てはしたくない。

ひたすらに道具になりたい。

そうでなければ、わたしの中の光は思いだせないから。

コントロール

一体全体、そこまでコントロールしないと気が済まないのはなぜなのか?

その人の中にも母の中にも見てしまうコントロール。

共通の人との関係において、激しく牽制される。

それに対し、激しく怒れてしまう。

その狡さも大嫌い。

今日のわたしは彼女を裁きたい。

彼女に対し、一緒に牢獄からでようってどうしても思えない。

一体その奥底にある恐れはなんなのか?

わたしも、誉められたい、認められたいって思いから行動してしまったのかしら?

特別性を見ることなく、どの出逢いもどの瞬間も等しく尊いものとしたい。

特別性

ある人との時間が他の時間よりも特別に大切に思えるとき。

他のあらゆる出逢いをきっと心のどこかで踏みにじってる。

どんな出逢いも、目の前にいてくれる人は救い主であり、圧倒的な与え手。

どの瞬間も等しく聖なる一瞬に本当は変えられる。

今のわたしは努力中。

なんどもなんども自我の声に耳を傾けてしまいながらも、なんどもなんどもそうでない選択をしたいとぶつかってみる。

ある人から幾度もコントロールを受けたことに今更ながらとても怒りを感じている。

かなりふつふつと。

でも、その怒りに乗ったら、わたしも彼女と同じ特別性を握りしめてしまう。

困った瞬間、はっとさせてくれたのが冒頭の言葉。

わたしへ

言葉を超えた叡智にふれたとき、その体験は言葉では決してわかちあえない。

言葉にした途端、各々の分離した視点からの解釈が入ってしまうから。

あるいは、自我の概念においては、傲慢に聞こえてしまうこともあるだろう。

本当は、自我の概念こそ傲慢なのだけど。

誰かになにかを伝えるためでなく、ただ自分の素直な気持ちと体験のおぼえがき。

ただひたすらに誠実に。

自分の中の光を見ようとしつづけること。

目の前の相手を通して、本当のわたしを思いださせてもらうこと。

与えることと受けとることはひとつ。

そこにはきっと深い畏敬の念しかないだろう。