2016年8月1日月曜日

『赦しが幸せへの鍵である』

奇跡講座 ワークブック編
レッスン122より抜粋

4.
赦そうとしない心は間違いを見ず、罪だけを見る。

それは見えぬ目で世界を眺め、自分自身による投影が浮かび上がり、自分という哀れな生命(いのち)の真似事(パロディー)を攻撃するのを見て、悲鳴を上げる。

生きたいと思いながらも、死んだほうがよいと願う。

赦しを欲しているが、その望みはないと見ている。

逃げ去りたいのに、あらゆるところに罪人を見ているので、逃げるすべもない。

5.
赦そうとしない心は絶望しており、さらなる絶望以外の何かをもたらす未来の見通しをもたない。

それなのに、自分がこの世界に下した裁きは覆せないものと見なしており、自分で自分をこの絶望に追い込んだということがわからない。

自分の目に見えているものがすべて、その裁きが正しいことを証言するので、自分が変わることはできないと考える。

自分は知っていると思っているので、尋ねることはしない。

自分が正しいと思っているので、疑問をもたない。

(中略)

9.
赦そうとしない心は、与えることと受けとることが同じであることを信じない。

それでも私たちは今日、あなたが敵だと思っている人と友だと見なしている人に対する赦しの練習を通して、与えることと受け取ることがひとつであることを学ぼうと努める。

そして、その両方を同じものと見ることができるようになるにつれ、あなたはこのレッスンをあなた自身にまであてはめるようになり、彼らの脱出にはあなたの脱出も含まれていたことがわかるようになるだろう。

2016年6月14日火曜日

定義づけ(信念)

世界が教えることは、このようなことです。

「結局は完璧な人はいないので、たとえ最良の人間関係であっても、良いこともあれば悪いこともある」。

この世界では、完璧に見えるものは、錯覚です。

完璧な人も、完璧な家族も、完璧な結婚も、完璧な人間関係も存在しないからです。

でも、つながりの足りなさというところへ深く入り込むと、人間関係の定義こそが問題だということが見え始めてきます。

つまり、間違った人間関係の概念です。

それが、本当の人間関係を自覚することを妨げています。

この世界における人間関係には、個人的な心、思い、身体、必要性、欲求、興味など、個人の概念が含まれていて、ゆえに、欠如のレンズを通して、人間関係をとらえるのです。

必要なものを得るため、お互いに心理的、感覚的な満足を与え合うため、依存し合うため、というように。

『覚醒へのレッスン』P340より


自分の中の定義づけ。
どんな定義があるから、怒りに駆り立てられるのか。

2016年6月13日月曜日

「原因や理由、目的や意味がなければならない。」

両親からも受け継いでいる強固な信念。

返報性や自由さ(自分の行動のレベルだけでなく、人としてあふれでるものとしても)とも関係する。

人生、仕事、人間関係、お金の使い道。

両親を見て、その生き方、考え方、在り方は本当に嫌だと思ったはずなのに、結局同じ生き方を選択してしまっている。

なにかに時間やお金を使うことには意味と結果がなければならないという生き方。

旅行でも物を購入することでも何かに参加することでも人と会うことでも。

失敗があってはいけない。

そもそも意味はないのに、人生に意味を見いだせず、仕事も向かないと感じ、前向きに責任をもって能動的に生きられないループに入ってしまう中で、目に見えないものや一見すると結果が見えない(あるいは自分が求めているものと相いれない)ものに喜んで時間やお金を使えなくなっている自分がいた。

あらゆることにおいて、意味や目的や理由が必要で、それらがあるべきだと信じ、選択し、疑えず、要求してしまっている自分がいた。

その信念は色んな人の誠意を踏みにじり、傷つけたとも思う。

目の前にあふれ、自分の周りにあふれている宝物に気づけない、そんな風になってしまった自分がとても悲しい。

自我としては少しずつでも積み上げてきたと思ってきたものを、もう一度全部捨て、ゼロからスタートしなければいけないようだ。

すごく恐くて、できるかもわからないけれど。

そして、コースを含めて様々な人が表現する非二元というものと、今を生きるということも混同してしまっている自分もいる。

これを超えられるだろうか。

2016年6月1日水曜日

レッスンで陥りがちな自我

いまだに白黒思考、0か100かでグラデーションができないわたし。

レッスンにおいても、仕事が立て込んだりしてレッスンのスケジュールを守れないと、もう今日はダメだったと途中で放棄してしまうことがしばしばだった。

今日はそんな自我までお見通しの言葉にはっとさせられた。

奇跡講座ワークブック編レッスン95より抜粋。

私たちはしばらくの間、毎時五分間の練習を続け、できるだけそれを怠らないようにしなけらばならない。

一時間ごとにはじめの五分間を使うことは堅固な枠組みとなるので、特に役立つだろう。

しかしこのスケジュールを守れなかったときでも、それを口実にして、なるたけ早く練習に戻ることをやめてしまってはいけない。

おそらく、もはや要求されたことに応えられなかったという理由で、その日の練習は失敗したと見なしたい誘惑にかられるだろう。

だがこれも、ただその正体を認識することが必要なだけである。

すなわち、それは自分の誤りが正されることに対する拒否反応であり、再び練習に取り組みたくはないという気持ちである。

あなたの間違いによって、聖霊の指導に遅延が生じることはない。

聖霊を妨げるのは、誤りを放棄したくないというあなたの気持ちだけである。

したがって、特にこの一~二週間は、私たちの勤勉さが減退したり、毎日の主題概念の練習のための指示に従うことに失敗したりしても、そういう自分を喜んで赦そうと決めておきなさい。

このように弱さに寛容になることによって、私たちはそれを看過できるようになり、私たちの学びを遅らせる力を弱さに与えずにすむ。

もし私たちが弱さにそうした力を与えるなら、私たちはそれを強さと見なし、強さと弱さを混同していることになる

今夜はとても疲れた。

どこでも人との関わり、コミュニケーションが求められるのに、どうにもこうにもうまくいかない。

本当にコミュニケーション能力ゼロで、自分に対して嘲笑しかない。

お酒を飲むと、少しだけ気持ちがでてきて、甘みがあまりないハイボールにはまった。

酔っぱらってるかも。

でもでも、今日は色々あったけれど、『私は自分の本性と、私たち二人を一なるものとして愛する神の本性のゆえに、あなたを尊重する。』という最後の言葉、本当に本当に好きなのだ。

2016年5月29日日曜日

孤独感

おかしな表現だけれど、ずっと孤独で死にそうだった。

職場でも家族の中でもプライベートでも、これまで築いてきたあらゆる関係においても、どこにも居場所がなく、この世界でひとりぼっちだという知覚からぬけだせない。

酔っぱらって完全に我を忘れてしまわなければやってらいれないほどに。

カフェでデイヴィッドのこの箇所にきたら、本当にもうどうしようもなく涙が止まらなかった。

これからも助けになるだろう。

『覚醒へのレッスン』
P261-263
60. 死への願望を永遠に手放す

2016年4月30日土曜日

テキスト 第17章Ⅳより

8.
自分では理解していないものを、喜んで受け入れなさい。

その関係の目的がその中で働いてそれを神聖なものとしていく様を知覚することで、それがあなたに自ずと説明されていくに任せなさい。

その関係の「失敗」を兄弟のせいにして責めたくなる機会をあなたは何度も見出すだろう。

なぜなら、その関係は時として、何の目的もないように見えるからである。

目的がなくなったような感覚があなたにつきまとい、自分がかつて満足を追求し、満足を見出したと思ったときのことをすべて思い出させるだろう。

そのときにあなたが見つけたのは本当は惨めさだったことを、今になって、忘れてはならない。

そして、衰えつつある自我に生気を吹き込んではならない。

あなたの関係は引き裂かれたのではない。

それは救われたのである。

Ⅳ「赦しと神聖な関係」より

2016年4月27日水曜日

ひとつの転機が訪れている気がして仕方がない。

具体的に何かが始動しているわけでもなく、目に見える形で変化があるわけでもないけれど。

仕事において、少し前よりも自由に要領よくこなせるようになったり、凝り固まった感じでなくコミュニケーションをとることも少しずつできるようになった。

それと同時に、今の仕事や職場がとても退屈に感じてしまったり、枠組みに収まらない自分がいて、奔放に飛び出したりチャレンジしたくて仕方がない感じがつづいている。

毎日嫌だと感じたり、面倒くさかったり、一日中イライラしている日ももちろんあるけれど。

こんな自分の気持ちを持てあましていて、恐くて不安で、でも、恐怖や不安を超えてしまう何かもあって。

もうどうしていいのかわからない。

感覚に付随する物語にふけらずにただ観察すること、執着しないことによって、快楽に逃げたり痛みから目を背けたりする必要がなくなる。

すると、人生に丸ごと向きあうという自由を得る。

それは、もっと軽やかに、幸せに、のびのびと生きる自由だ。

痛みが及ぼしていた力は徐々に小さくなり、自分の心身に備わった可能性がひらけてくる。

そうやってより自分らしくなれば、美しい人生や喜びを手に入れやすくなるのだ。

『「夢をかなえる」自分になる』より抜粋

2016年4月19日火曜日

分離の信念は、個人の心と思考を信じるところから生じています。

その信念は、罪の幻想を誘い出します。

ですからそれは、過ちとして明らかにされなければなりません。

啓示や救いは、単に、過ちを過ちとして見ることです。

その区別は、ホーリースピリットの優れた判断力と知覚で行われます。

自らの心をホーリースピリットと見るというあなたの意志は、愛に道を譲り、すべての判断と比較を転換させ、現在の瞬間へ心を開かせます。

『覚醒へのレッスン』P164より抜粋

2016年4月17日日曜日

感情について

湧き起こってくる感情は、否定したり押しのけたりしないことがいちばんです。

感情を取り消して手放すには、それらを意識へ浮上させるのが大事だからです(レッスン333参照)。

感情が意識に上ると、その感情が動揺や不快感であっても、贈り物のように感じられるでしょう。

心の変化、つまり奇跡を求める働きとして見られるようになるからです。

感情は、いかなるときも、その人がどちらの声を聞いているかを示します。

したがって、それらは、心に耳を傾けるための規律の中で重要な機能を果たしています。

心とは、決断そのものです。

決断は、あなたが信じているあらゆることに基づいた結論であるということを覚えておいてください。

無意識の心は間違った信念です。

それが完全に取り消されるまで、心の平和と苛立ちの狭間で、動揺を感じるでしょう。

ですから、信じているすべてを疑問視することが、コースやあらゆる真の精神修養の趣旨です。

過ちを理解し分析しようとすることより、疑問視することがより重要なのは確かです。

エゴはただゆるされて変容するだけなので、決して本当に理解されることはないからてます。

『覚醒へのレッスン』P151より抜粋

※ レッスン333 「ここでは赦しが葛藤という夢を終わらせます。」
http://lesson.spiritual-counseling.info/acim/333

2016年4月12日火曜日

とっても胃が痛い。

久々に人間関係で苦痛と孤独と泣き出したい気持ちを味わっている。

たぶん、小学生以来。

これまでどこかに答えや正解、あるいはこれさえ頑張れば大丈夫というものを求めつづけ、偶像を見いだそうとしてきた。

それらやそこへの期待がなくなった今、とても恐くてたまらないし、何をどうすればいいのかわからない。

明日もあの孤独と疎外の職場にいくのが嫌でたまらない。

でも、ただ自分の中の錯覚を取り消して赦しつづける。

黙々と、誰よりもそこへの思いだけはもって生きたい。

それはわたしの思いではなく、色んな人たちにあまりにも多くのものを与えてもらったから、そう生きたいと思わざるを得ないのだ。

2016年4月6日水曜日

辛い、しんどいと思いたくなることでいっぱい。

朝どれほどやりたくなくても、とにかく欠かさず、呼吸から始めてノートに思考を自動書記する時間を取っていなかったら、毎朝ベッドからでられなかったかもしれない。

不思議なことに、色んな抵抗を通り抜けてその時間を作ることで、とりあえずは身体の痛みと無気力から毎朝脱け出せ、むしろその後は気持ちよく朝の時間を過ごせる気がする。

今朝は本当にもう無理!というぐらい疲弊していたのが、その後、ちゃんと気力がでてきたからびっくりだ。

自我の抵抗であり、幻想なのだな、なんて巧妙なんだと思った。

なんとなくレッスンも再開し、今、毎日毎日思っていることは、感じている感情や不幸というものに浸り続けたいのかどうか、このドラマに浸り続けたいのかどうか、ということ。

親からは容姿や仕事のことで全面否定され、職場ではひどければ無視に近い状況だったり、溶け込めなくて孤立してしまったり。

どれほど頑張ったところで、自分の事案ではない対応に負われ、目に見えない部分でのことばかりだから、誰にも評価も感謝もされず、事案に配慮があるわけでもなく、やりきれない気持ちになることもしばしばだ。

幾度も幾度も孤独を感じ、怒りを感じ、不満を感じ、すべてをやめたくなる。

それでも、本当にもう飛躍したい、これまでと同じ繰り返しはもう嫌だとだけは思っている。

置かれている状況からも、それができるタイミングだとも信じている。

変えるのは相手でも状況でもなく、自分の心から錯覚を取り除くこと。

ただただやりつづけること。

2016年4月2日土曜日

途方に暮れること=全面的降伏=自分はなにも知らないと価値判断をすべて退けること

今、とてもとても恐い。

そして、本当に途方にくれている。

これまでとは違う一歩を踏み出したいと思う一方で、なにをやればよいのかもやり方もわからず、答えも訊く人もいないから。

また、それは外側に答えを求めるものではない、ということだけは感じているから。

そこに対して嘆きや怒りや攻撃の思いは感じていない。

さびしい、孤独だ、不安で恐いという思いはある。

攻撃の思いなく途方にくれていることを認めてみたら、やっぱり内側に、見えない存在に向かうしかなかった。

今世において、なんとなく生きることや嫌なことは避けて通ることを選択することもできそうな気はするけれど、逃げずに味わいきること、選択に責任をもって生きることをしたい。

どうしてもその一歩を踏み出せないでいるけれど。

今日はあることから、あらゆることに対して、今の自分にはこれが足りなくて欠けているから踏み出せないと感じていることが腹に落ちた感じがする。

能力も体型も話術もなにもかも全部足りない。

同時に、両親からも他者からも今のこの自分を認めてもらえていないことに葛藤を感じていると思う。

それが見えたとき、せめて自分だけは今のこの自分に対して認めたい、このままの自分の存在を許したいと思った。

○○という条件があればスタートできたり変われるのではなく、今のこのままから始めること。

そして、どうすればいいのかはわからないけれど、新しいものや色んな人とふれあうことが必要だととても感じている。

Nothing truly valuable arises from ambition or from a mere sense of duty: it stems rather from love and devotion towards men and to wards objective thing. (A. Einstein)

本当に価値のあるものは野心や義務感からでなく、人間や自分が向き合うものごとへの愛情と献身から生まれるものでしょう。

2016年3月1日火曜日

どんな形であれ人と関わることが本当に嫌になり、闇が祓われたあとの光に手を伸ばしたいとも思えない中で今夜開いたページ。

"それ"は在る より抜粋

世間を棄てて山に篭り、ただ座り続けてもあなたの真の解放にはならない。

なぜなら、世界と対面しなければ、あなたにどのような観念があるのか、あなたは知ることができないからだ。

あなたには解放すべき観念がある。

それから逃げるわけにはいかない。

世間から離れることはできても、世界からは逃げられない。

観念からは逃げられない。

どこに行っても、どこに逃げても、あなたはまだ世界の中にいる。

観念の中にいる。

世界からは逃げられない。

不可能だ。

なぜなら、あなたの中に世界があるのだから。

あなたの中に観念があるのだから。

2016年2月21日日曜日

日常へ

戸隠を後にするとき、これほどまでに涙があふれてくるように名残惜しく感じたのは初めてだ。

神の懐から離れることがとてもさびしい。

でも、今日のレッスンのように「わたしの救いはわたし自身の中から訪れます」に向かい合うために、日常という現実や下界に戻る。

今、この瞬間も、神に対して心開けていない自分がいるし、なにがなんでも真実を観たいと思えない自分もいる。

むしろ、真実ってなんなのだろうと感じている。

ただ、わたしは今与えられているもの、人、環境、状況、この瞬間の自分、それらがどのようなものであったとしても、できるかわからないしどうやればいいのかもわからないけれど、全面的に受け入れたい、心からの感謝と共にありたいとだけは感じている。

そして、兄弟たちと共に救われたいとだけは本当に思っている。

昨夜は、今感じていることや問題だと思っていることをひとつずつ丁寧に書き出していった。

ある自我が見えてきて気づいてしまい、眠りにつけなかったり、眠れても夢の中でどちらを選択するのかと、休みなく心の誠実さを問われた気がする。

この上なく赦したくない人たち、それでも兄弟として観たいのか、共に還りたいのかと自分に問いつづけた一晩で、本当に苦しかった。

できるのかはわからないけれど、今回与えてもらったヒントを無駄にしないよう、もう一度一歩ずつ丁寧に取り組んで進んでいこうと思う。

そして、戸隠を去ったあとも、いつも心の中に神々を置き、共に在らせてもらいたい。

それを忘れずにいたい。

テキスト第16章Ⅰより

T-16.I.6.
The meaning of love is lost in any relationship that looks to weakness, and hopes to find love there.

The power of love, which is its meaning, lies in the strength of God that hovers over it and blesses it silently by enveloping it in healing wings.

Let this be, and do not try to substitute your “miracle” for this.

(A Course in Miracles-Text)

弱さを頼りとし、そこに愛を見出すことを望むような関係の中では、愛の意味は失われている。

愛の意味とは愛の力のことであるが、その力は神の強さの中にある。

それは、その関係を見守り、それを癒しの翼の中に包み込んで、静かに祝福する強さである。

これが生じるままにしておきなさい。

そして自分の「奇跡」をその代替としてはならない。

奇跡講座 テキスト編 (中央アート出版)
第16章Ⅰ 『真の共感』より抜粋

2016年2月20日土曜日

誠実さ

今日の戸隠は、昨日とはまったく違う風景。

寒くて、いっぱい雪が降り、美しい幻想的な雪景色。

すごく嬉しかった。

戸隠に来ても、全面的に神に対して心を開けなかったり、真実に対して揺るぎなく手を伸ばそうという意志力をもてていない。

今朝、参拝しながら、少なくとも神様の前でよいこになることはやめたい、顔色を窺うことはやめたいと強く思った。

向かえないのなら向かえないこと、葛藤があるのなら葛藤があること、真実というものがわけがわからなくてもういやだと思っていること、それらを取り繕いたくないと感じている。

天八心思兼命さまの前で心から感じたことは、いついかなるときも、たとえ真実に手を伸ばせていなくても、ただ神の前でひたすらに誠実でありたい、そこに関してはぶれることなくそうありたいという思い。

今日は、一日、神の前でよい子であることをやめさせてください、自我はいけないものだと自分を裁いたり、こういう思考をしなければというものを外して過ごさせてください、どんなにダメな自分だと感じたとしても、ただあなたの懐の中で目一杯甘えさせてくださいと祈っていた。

なんとか辿り着いた火之御子社でも、わたしは今、自分の中に光や神の答えというものがあるのかどうしてもわからない、でもあなたに対して偽ったり取り繕うことはしたくない、そこだけは誠実でいたいとわきあがる。

去り際、すごく離れたくないという思い、さびしいという思いがわき起こり、なにかが自分の中で崩れて、ひたすら泣けて泣けて仕方がなかった。

いつもいつも思うけれど、戸隠の神々はやさしくて、包み込んでくれて、そっとさりげなく必ず導きを与えてくれる。

今、ものすごく苦しい。

でも、この地で過ごさせてもらい、足を止めて雪の静寂さに身を任せたとき、わたしはやっぱりもう目の前の現実を変えたいわけでも、人生を自我の視点からよきものとしたいわけでも、結果や証拠がほしいわけでもなく、本当の意味で救われたい、恐れることなく生きたいというのが心の奥底からの思いであることに気づいてしまった。

そして、なぜだかわからないけれども、それは自分だけひとりが救われたいとは思えなくて、どうしても兄弟とともに救われたいと思っている。

今のわたしにはそれはとてつもなく難しいことに思えたり、どうやっていいのかもまったくわからない。

でも、大切にしたいとは思う。

どこから再び始めるか迷っていたテキストも、第16章から始めることにした。

レッスン69「私の不満が、私の中にある世の光を隠している」より

Workbook Lesson69

"My grievances hide the light of the world in me."

No one can look upon what your grievances conceal.

Because your grievances are hiding the light of the world in you, everyone stands in darkness, and you beside him. But as the veil of your grievances is lifted, you are released with him.

Share your salvation now with him who stood beside you when you were in hell.

He is your brother in the light of the world that saves you both.

奇跡講座 ワークブック編 (中央アート出版)より抜粋

レッスン69

あなたの不満が隠しているものは、誰も見ることができない。

あなたの不満が、あなたの中にある世の光を隠しているので、誰もが闇の中に立ち、あなたもその傍らに立っている。

しかし、あなたの不満のベールが取り払われると、あなたはその人と一緒に解放される。

あなたが地獄にいたときに傍らにいたその人と、今、救済を共有しなさい。

あなた方をともに救う世の光の中で、その人はあなたの兄弟である。


昨日も今日のレッスンも、さらりと流してはいけないような気がしている。

今できる範囲でだけれど、何度も何度も読み、一生懸命取り組もうとはしてみた。

今回、外側に頼れるものがなく、助けがあったとしても心を変えるしか救われないと感じ、色々なことに対して気持ちの上でも窮地に陥り、仕事のこともこの先どうしてよいかわからないことが起こり、必死な思い(気持ちも距離も金銭的にも)で戸隠に来た。

なにかを得ようと思ってきたわけでなく、ただもう一度自分の心に向き合いたかった。

内側を見ようとすればするほど、たまたまその日にさしだされたレッスンに取り組めば取り組むほど、自分では予想外だったけれど、避けて通れないのが「兄弟」という概念。

今、仕事の変化に対して恐れや不安、将来の選択への迷い、そここそが自分の中で最も問題だと感じていたはずなのに。

さしだされた答えがそれなのならば、覚悟を決め、ひとつずつ丁寧に自我を見て、取り消していきたい。

どうしても超えたいし、ひとりだけで救われたいとか癒されたいとはどうしても思えないから。

テキスト第16章Ⅰより

"A Course in Miracles"

T-16.I.3.
Your part is only to remember this; you do not want anything you value to come of a relationship.

You choose neither to hurt it nor to heal it in your own way.

You do not know what healing is.

All you have learned of empathy is from the past.

And there is nothing from the past that you would share, for there is nothing from the past that you would keep.

Do not use empathy to make the past real, and so perpetuate it.

Step gently aside, and let healing be done for you.

Keep but one thought in mind and do not lose sight of it, however tempted you may be to judge any situation, and to determine your response by judging it.

Focus your mind only on this:

I am not alone, and I would not intrude the past upon my Guest.
I have invited Him, and He is here.
I need do nothing except not to interfere.

奇跡講座 テキスト編(中央アート出版)より
第16章 Ⅰ 『真の共感』より

3.
あなたの役割は単に、自分が価値を認めているものが何らかの関係から得られることを自分は望まないと、おぼえておくことだけである。

それは、その関係を損なうことも、自分なりのやり方でそれを癒すことも選択しないということである。

あなたは癒しとは何なのかを知らない。

共感についてあなたが学んだことはすべて、過去からのものである。

そして過去からのものであなたが共有したいものは何もない。

というのも、過去からのもので、あなたがとっておきたいようなものは何もないからである。

過去を実在のものにして永続させるために、共感を用いてはならない。

静かに脇へ退いて、癒しがあなたのために為されるに任せなさい。

たとえ、自分で状況判断をして、その判断に基づいて自分の応答を決めてしまいたいと、どれほど強く思ったとしても、ただ一つの考えを心に留め、それを見失ってはならない。

あなたの心を次のことだけに集中させなさい。

私はひとりではない。
だから、私が招いた賓客に、過去を押しつけない。

私が彼を招いたので、彼はここにいる。

邪魔にならないようにする以外に、私はもしなくてよい。

2016年2月19日金曜日

「不満」を使って内側へ(レッスン68)

レッスン68のひとつの使い方(思いつきのメモ)。

☆1
レッスン68のキーワード。

"grievances=不満"

わたしが他者に対して不満をもっているのはどういったことか。

わたしが他者に対して「こうあるべきだ」と思っていることはどういうことか。

人物ごとに具体的に書きだしてみる。

共通点や何度もでてくることを見ていく。

ひっくり返す。
自分に対してかけている制限やべきを見てみる。

まだそれを持っていたいかどうか、誠実に心に訊いてみる。

☆2
「私はあなたを友として見たい。あなたが私の一部であることを思いだし、私自身を知ることができるようになるために。」

を葛藤のある相手に対してひたすら使い続けてみる。

さらに、イメージの中で手を取り合って、赦しの光に溶かしてもらう。

っていうのはどうか?

戸隠

どうしても心を落ち着かせることができなくて、どうしても「なにをおいても真実を見たい」と意図しつづける意志力がもてなくて(一旦もててもすぐに折れそうになる)、再び戸隠に来ている。

お天気も雪もまったく予想していない戸隠を見せてもらうことになり、とても驚いている。

仕事において今直面していることのように、(自我的によい悪い以前に)あり得ないとしか言えないこと。

まるで本当に迷うことなどなにひとつなく、心は澄みきって晴れやかで、道は自分で考えなくとも明確で、安心してそこについていけばいいと示されているとしか言いようがない戸隠での一日だった。

そして、用意されていた道はこれほどまで楽なのかと拍子抜けするようなものだった。

わたしの心や感情、気持ちがどうであれ、楽であっけらかんとして平穏に包まれていると認めるしかない感じだ。

これまで色々な季節に、心が苦しくなるたびにこの地を訪れて助けてもらってきたけれど、一日を通して、どの場所からも今日ほどくっきり明瞭に戸隠山を眺めつづけたことはない。

本当に明瞭なのだ。

気持ちがついていかず、参ったなぁと思う(笑)。

そして、長い長い雪道を一歩一歩進んだり、ぼーっと山を眺める中で、もう一度立ち返りたいことも色々浮かんだ。

すべては自分の心だけ。
外の状況や人や環境に原因があるわけではない。常に、例外なく内側へ内側へ目を向けること。

すべてのことに「意味」を求めないこと。
きっと、「なぜか」ということは、わたしたちは知らなくてもいいし、わからないこと。それは、コースをやることや真実に対しても。

そして、少なくとも、神の前ではよい子を演じなくてもよいということ。心からの思いなのか、駆け引きなのか、ちゃんと自分に誠実になること。

自分が今直面していることに対して、心の底から本当に善きことが起こったとはまだ全然思えていない。

それでも、今日という一日を通し、今の職場や仕事、自分に関わってくれた人たち、状況、今この瞬間に存在していること、そうしたあらゆることに対して、本当の意味での感謝、わきあがるような感謝と喜びと共にありたい、それだけは嘘偽りなくそうありたいと願っている。

今夜も明日も、なにもしない無目的な時間の中で、大切なことを思いだしたいなぁと思う。

仕事も戸隠も、わたしの予定や予測を完全に崩してくれてありがとう。

レッスン68

A Course in Miracles
Workbook-Lesson68

"Love holds no grievances."

......
Begin today's extended practice period by searching your mind for those against whom you hold what you regard as major grievances.

Some of these will be quite easy to find.

Then think of the seemingly minor grievances you hold against those you like and even think you love.

It will quickly become apparent that there is no one against whom you do not cherish grievances of some sort.

This has left you alone in all the universe in your perception of yourself.

Determine now to see all these people as friends.

Say to them all, thinking of each one in turn as you do so:

I would see you as my friend, that I may remember you are part of me and come to know myself.

Spend the remainder of the practice period trying to think of yourself as completely at peace with everyone and everything, safe in a world that protects you and loves you, and that you love in return.

Try to feel safety surrounding you, hovering over you and holding you up.

Try to believe, however briefly, that nothing can harm you in any way.

At the end of the practice period tell yourself:

Love holds no grievances.
When I let all my grievances go I will know I am perfectly safe.

The short practice periods should include a quick application of today's idea in this form, whenever any thought of grievance arises against anyone, physically present or not:

Love holds no grievances.
Let me not betray my Self.

In addition, repeat the idea several times an hour in this form:

Love holds no grievances.
I would wake to my Self by laying all my grievances aside and wakening in Him.

レッスン68
『愛は不満を抱かない』

(中略)

今日の長いほうの練習は、心の中を探索し、自分が大きな不満と見なす気持ちを抱いている相手を見つけることから始める。

このような不満はいくつか簡単に見つかるだろう。

次に、小さい不満のように見えるものも探し、あなたはそれらの不満を、自分が好意をもっていたり、愛していると思っている相手に対してさえ抱いているということを考えてみる。

あなたが何らかの不満を抱いていない人などいないことが、すぐに明らかになってくるだろう。

このことが、あなたが知覚している自分自身を、全宇宙の中で孤独な存在としてきたのである。

今、これらの人々すべてを友として眺めようと決意しなさい。

彼らのことをひとりずつ順々に思い浮かべながら、彼らのすべてに対して次のように言いなさい。

私はあなたを友として見たい。
あなたが私の一部であることを思い出し、私自身を知ることができるようになるために。

残りの練習時間には、自分がすべての人やすべてのものごとと完全に平和に共存していて、自分を保護し愛してくれる世界、そして自分のほうからも愛している世界の中で安全でいることを思い浮かべてみる。

安全があなたの周りを囲み、あなたの上に漂い、あなたを支えているのを感じようとしてみなさい。

つかの間でよいから、何ものも、どのようにしても自分に危害を加えることはできないのだと信じようとしてみなさい。

練習の終わりには、自分に向かって次のように言う。

愛は不満を抱かない。
すべての不満を手放すとき、私は自分がまったく安全であることを知るだろう。

短い練習の一部として、物理的にそこにいるかいないかに関わらず、誰かに対して何らかの不満の思いが湧き上がってくるようなら、いつでも、速やかに次の形で今日の概念をあてはめる。

愛は不満を抱かない。
私が自分の自己を裏切ることがありませんように。

加えて、一時間に数回は、主題概念を次の形で繰り返す。

愛は不満を抱かない。
私はすべての不満を退け、キリストの中で目覚めることにより、真の自己に目覚めたい。


レッスンをこれほどまでに何度も何度も読み、一日の中心としようと意図できたのは久しぶりだ。

この数日のレッスンは容赦ない。

今朝、ふと突然思い浮かび、頭から離れなくなった言葉。

"Know thyself."