2016年2月21日日曜日

日常へ

戸隠を後にするとき、これほどまでに涙があふれてくるように名残惜しく感じたのは初めてだ。

神の懐から離れることがとてもさびしい。

でも、今日のレッスンのように「わたしの救いはわたし自身の中から訪れます」に向かい合うために、日常という現実や下界に戻る。

今、この瞬間も、神に対して心開けていない自分がいるし、なにがなんでも真実を観たいと思えない自分もいる。

むしろ、真実ってなんなのだろうと感じている。

ただ、わたしは今与えられているもの、人、環境、状況、この瞬間の自分、それらがどのようなものであったとしても、できるかわからないしどうやればいいのかもわからないけれど、全面的に受け入れたい、心からの感謝と共にありたいとだけは感じている。

そして、兄弟たちと共に救われたいとだけは本当に思っている。

昨夜は、今感じていることや問題だと思っていることをひとつずつ丁寧に書き出していった。

ある自我が見えてきて気づいてしまい、眠りにつけなかったり、眠れても夢の中でどちらを選択するのかと、休みなく心の誠実さを問われた気がする。

この上なく赦したくない人たち、それでも兄弟として観たいのか、共に還りたいのかと自分に問いつづけた一晩で、本当に苦しかった。

できるのかはわからないけれど、今回与えてもらったヒントを無駄にしないよう、もう一度一歩ずつ丁寧に取り組んで進んでいこうと思う。

そして、戸隠を去ったあとも、いつも心の中に神々を置き、共に在らせてもらいたい。

それを忘れずにいたい。

テキスト第16章Ⅰより

T-16.I.6.
The meaning of love is lost in any relationship that looks to weakness, and hopes to find love there.

The power of love, which is its meaning, lies in the strength of God that hovers over it and blesses it silently by enveloping it in healing wings.

Let this be, and do not try to substitute your “miracle” for this.

(A Course in Miracles-Text)

弱さを頼りとし、そこに愛を見出すことを望むような関係の中では、愛の意味は失われている。

愛の意味とは愛の力のことであるが、その力は神の強さの中にある。

それは、その関係を見守り、それを癒しの翼の中に包み込んで、静かに祝福する強さである。

これが生じるままにしておきなさい。

そして自分の「奇跡」をその代替としてはならない。

奇跡講座 テキスト編 (中央アート出版)
第16章Ⅰ 『真の共感』より抜粋

2016年2月20日土曜日

誠実さ

今日の戸隠は、昨日とはまったく違う風景。

寒くて、いっぱい雪が降り、美しい幻想的な雪景色。

すごく嬉しかった。

戸隠に来ても、全面的に神に対して心を開けなかったり、真実に対して揺るぎなく手を伸ばそうという意志力をもてていない。

今朝、参拝しながら、少なくとも神様の前でよいこになることはやめたい、顔色を窺うことはやめたいと強く思った。

向かえないのなら向かえないこと、葛藤があるのなら葛藤があること、真実というものがわけがわからなくてもういやだと思っていること、それらを取り繕いたくないと感じている。

天八心思兼命さまの前で心から感じたことは、いついかなるときも、たとえ真実に手を伸ばせていなくても、ただ神の前でひたすらに誠実でありたい、そこに関してはぶれることなくそうありたいという思い。

今日は、一日、神の前でよい子であることをやめさせてください、自我はいけないものだと自分を裁いたり、こういう思考をしなければというものを外して過ごさせてください、どんなにダメな自分だと感じたとしても、ただあなたの懐の中で目一杯甘えさせてくださいと祈っていた。

なんとか辿り着いた火之御子社でも、わたしは今、自分の中に光や神の答えというものがあるのかどうしてもわからない、でもあなたに対して偽ったり取り繕うことはしたくない、そこだけは誠実でいたいとわきあがる。

去り際、すごく離れたくないという思い、さびしいという思いがわき起こり、なにかが自分の中で崩れて、ひたすら泣けて泣けて仕方がなかった。

いつもいつも思うけれど、戸隠の神々はやさしくて、包み込んでくれて、そっとさりげなく必ず導きを与えてくれる。

今、ものすごく苦しい。

でも、この地で過ごさせてもらい、足を止めて雪の静寂さに身を任せたとき、わたしはやっぱりもう目の前の現実を変えたいわけでも、人生を自我の視点からよきものとしたいわけでも、結果や証拠がほしいわけでもなく、本当の意味で救われたい、恐れることなく生きたいというのが心の奥底からの思いであることに気づいてしまった。

そして、なぜだかわからないけれども、それは自分だけひとりが救われたいとは思えなくて、どうしても兄弟とともに救われたいと思っている。

今のわたしにはそれはとてつもなく難しいことに思えたり、どうやっていいのかもまったくわからない。

でも、大切にしたいとは思う。

どこから再び始めるか迷っていたテキストも、第16章から始めることにした。

レッスン69「私の不満が、私の中にある世の光を隠している」より

Workbook Lesson69

"My grievances hide the light of the world in me."

No one can look upon what your grievances conceal.

Because your grievances are hiding the light of the world in you, everyone stands in darkness, and you beside him. But as the veil of your grievances is lifted, you are released with him.

Share your salvation now with him who stood beside you when you were in hell.

He is your brother in the light of the world that saves you both.

奇跡講座 ワークブック編 (中央アート出版)より抜粋

レッスン69

あなたの不満が隠しているものは、誰も見ることができない。

あなたの不満が、あなたの中にある世の光を隠しているので、誰もが闇の中に立ち、あなたもその傍らに立っている。

しかし、あなたの不満のベールが取り払われると、あなたはその人と一緒に解放される。

あなたが地獄にいたときに傍らにいたその人と、今、救済を共有しなさい。

あなた方をともに救う世の光の中で、その人はあなたの兄弟である。


昨日も今日のレッスンも、さらりと流してはいけないような気がしている。

今できる範囲でだけれど、何度も何度も読み、一生懸命取り組もうとはしてみた。

今回、外側に頼れるものがなく、助けがあったとしても心を変えるしか救われないと感じ、色々なことに対して気持ちの上でも窮地に陥り、仕事のこともこの先どうしてよいかわからないことが起こり、必死な思い(気持ちも距離も金銭的にも)で戸隠に来た。

なにかを得ようと思ってきたわけでなく、ただもう一度自分の心に向き合いたかった。

内側を見ようとすればするほど、たまたまその日にさしだされたレッスンに取り組めば取り組むほど、自分では予想外だったけれど、避けて通れないのが「兄弟」という概念。

今、仕事の変化に対して恐れや不安、将来の選択への迷い、そここそが自分の中で最も問題だと感じていたはずなのに。

さしだされた答えがそれなのならば、覚悟を決め、ひとつずつ丁寧に自我を見て、取り消していきたい。

どうしても超えたいし、ひとりだけで救われたいとか癒されたいとはどうしても思えないから。

テキスト第16章Ⅰより

"A Course in Miracles"

T-16.I.3.
Your part is only to remember this; you do not want anything you value to come of a relationship.

You choose neither to hurt it nor to heal it in your own way.

You do not know what healing is.

All you have learned of empathy is from the past.

And there is nothing from the past that you would share, for there is nothing from the past that you would keep.

Do not use empathy to make the past real, and so perpetuate it.

Step gently aside, and let healing be done for you.

Keep but one thought in mind and do not lose sight of it, however tempted you may be to judge any situation, and to determine your response by judging it.

Focus your mind only on this:

I am not alone, and I would not intrude the past upon my Guest.
I have invited Him, and He is here.
I need do nothing except not to interfere.

奇跡講座 テキスト編(中央アート出版)より
第16章 Ⅰ 『真の共感』より

3.
あなたの役割は単に、自分が価値を認めているものが何らかの関係から得られることを自分は望まないと、おぼえておくことだけである。

それは、その関係を損なうことも、自分なりのやり方でそれを癒すことも選択しないということである。

あなたは癒しとは何なのかを知らない。

共感についてあなたが学んだことはすべて、過去からのものである。

そして過去からのものであなたが共有したいものは何もない。

というのも、過去からのもので、あなたがとっておきたいようなものは何もないからである。

過去を実在のものにして永続させるために、共感を用いてはならない。

静かに脇へ退いて、癒しがあなたのために為されるに任せなさい。

たとえ、自分で状況判断をして、その判断に基づいて自分の応答を決めてしまいたいと、どれほど強く思ったとしても、ただ一つの考えを心に留め、それを見失ってはならない。

あなたの心を次のことだけに集中させなさい。

私はひとりではない。
だから、私が招いた賓客に、過去を押しつけない。

私が彼を招いたので、彼はここにいる。

邪魔にならないようにする以外に、私はもしなくてよい。

2016年2月19日金曜日

「不満」を使って内側へ(レッスン68)

レッスン68のひとつの使い方(思いつきのメモ)。

☆1
レッスン68のキーワード。

"grievances=不満"

わたしが他者に対して不満をもっているのはどういったことか。

わたしが他者に対して「こうあるべきだ」と思っていることはどういうことか。

人物ごとに具体的に書きだしてみる。

共通点や何度もでてくることを見ていく。

ひっくり返す。
自分に対してかけている制限やべきを見てみる。

まだそれを持っていたいかどうか、誠実に心に訊いてみる。

☆2
「私はあなたを友として見たい。あなたが私の一部であることを思いだし、私自身を知ることができるようになるために。」

を葛藤のある相手に対してひたすら使い続けてみる。

さらに、イメージの中で手を取り合って、赦しの光に溶かしてもらう。

っていうのはどうか?

戸隠

どうしても心を落ち着かせることができなくて、どうしても「なにをおいても真実を見たい」と意図しつづける意志力がもてなくて(一旦もててもすぐに折れそうになる)、再び戸隠に来ている。

お天気も雪もまったく予想していない戸隠を見せてもらうことになり、とても驚いている。

仕事において今直面していることのように、(自我的によい悪い以前に)あり得ないとしか言えないこと。

まるで本当に迷うことなどなにひとつなく、心は澄みきって晴れやかで、道は自分で考えなくとも明確で、安心してそこについていけばいいと示されているとしか言いようがない戸隠での一日だった。

そして、用意されていた道はこれほどまで楽なのかと拍子抜けするようなものだった。

わたしの心や感情、気持ちがどうであれ、楽であっけらかんとして平穏に包まれていると認めるしかない感じだ。

これまで色々な季節に、心が苦しくなるたびにこの地を訪れて助けてもらってきたけれど、一日を通して、どの場所からも今日ほどくっきり明瞭に戸隠山を眺めつづけたことはない。

本当に明瞭なのだ。

気持ちがついていかず、参ったなぁと思う(笑)。

そして、長い長い雪道を一歩一歩進んだり、ぼーっと山を眺める中で、もう一度立ち返りたいことも色々浮かんだ。

すべては自分の心だけ。
外の状況や人や環境に原因があるわけではない。常に、例外なく内側へ内側へ目を向けること。

すべてのことに「意味」を求めないこと。
きっと、「なぜか」ということは、わたしたちは知らなくてもいいし、わからないこと。それは、コースをやることや真実に対しても。

そして、少なくとも、神の前ではよい子を演じなくてもよいということ。心からの思いなのか、駆け引きなのか、ちゃんと自分に誠実になること。

自分が今直面していることに対して、心の底から本当に善きことが起こったとはまだ全然思えていない。

それでも、今日という一日を通し、今の職場や仕事、自分に関わってくれた人たち、状況、今この瞬間に存在していること、そうしたあらゆることに対して、本当の意味での感謝、わきあがるような感謝と喜びと共にありたい、それだけは嘘偽りなくそうありたいと願っている。

今夜も明日も、なにもしない無目的な時間の中で、大切なことを思いだしたいなぁと思う。

仕事も戸隠も、わたしの予定や予測を完全に崩してくれてありがとう。

レッスン68

A Course in Miracles
Workbook-Lesson68

"Love holds no grievances."

......
Begin today's extended practice period by searching your mind for those against whom you hold what you regard as major grievances.

Some of these will be quite easy to find.

Then think of the seemingly minor grievances you hold against those you like and even think you love.

It will quickly become apparent that there is no one against whom you do not cherish grievances of some sort.

This has left you alone in all the universe in your perception of yourself.

Determine now to see all these people as friends.

Say to them all, thinking of each one in turn as you do so:

I would see you as my friend, that I may remember you are part of me and come to know myself.

Spend the remainder of the practice period trying to think of yourself as completely at peace with everyone and everything, safe in a world that protects you and loves you, and that you love in return.

Try to feel safety surrounding you, hovering over you and holding you up.

Try to believe, however briefly, that nothing can harm you in any way.

At the end of the practice period tell yourself:

Love holds no grievances.
When I let all my grievances go I will know I am perfectly safe.

The short practice periods should include a quick application of today's idea in this form, whenever any thought of grievance arises against anyone, physically present or not:

Love holds no grievances.
Let me not betray my Self.

In addition, repeat the idea several times an hour in this form:

Love holds no grievances.
I would wake to my Self by laying all my grievances aside and wakening in Him.

レッスン68
『愛は不満を抱かない』

(中略)

今日の長いほうの練習は、心の中を探索し、自分が大きな不満と見なす気持ちを抱いている相手を見つけることから始める。

このような不満はいくつか簡単に見つかるだろう。

次に、小さい不満のように見えるものも探し、あなたはそれらの不満を、自分が好意をもっていたり、愛していると思っている相手に対してさえ抱いているということを考えてみる。

あなたが何らかの不満を抱いていない人などいないことが、すぐに明らかになってくるだろう。

このことが、あなたが知覚している自分自身を、全宇宙の中で孤独な存在としてきたのである。

今、これらの人々すべてを友として眺めようと決意しなさい。

彼らのことをひとりずつ順々に思い浮かべながら、彼らのすべてに対して次のように言いなさい。

私はあなたを友として見たい。
あなたが私の一部であることを思い出し、私自身を知ることができるようになるために。

残りの練習時間には、自分がすべての人やすべてのものごとと完全に平和に共存していて、自分を保護し愛してくれる世界、そして自分のほうからも愛している世界の中で安全でいることを思い浮かべてみる。

安全があなたの周りを囲み、あなたの上に漂い、あなたを支えているのを感じようとしてみなさい。

つかの間でよいから、何ものも、どのようにしても自分に危害を加えることはできないのだと信じようとしてみなさい。

練習の終わりには、自分に向かって次のように言う。

愛は不満を抱かない。
すべての不満を手放すとき、私は自分がまったく安全であることを知るだろう。

短い練習の一部として、物理的にそこにいるかいないかに関わらず、誰かに対して何らかの不満の思いが湧き上がってくるようなら、いつでも、速やかに次の形で今日の概念をあてはめる。

愛は不満を抱かない。
私が自分の自己を裏切ることがありませんように。

加えて、一時間に数回は、主題概念を次の形で繰り返す。

愛は不満を抱かない。
私はすべての不満を退け、キリストの中で目覚めることにより、真の自己に目覚めたい。


レッスンをこれほどまでに何度も何度も読み、一日の中心としようと意図できたのは久しぶりだ。

この数日のレッスンは容赦ない。

今朝、ふと突然思い浮かび、頭から離れなくなった言葉。

"Know thyself."

2016年2月17日水曜日

何週間もどうしても進めることのできなかったレッスン64「わたしが自分の機能(はたらき)を忘れずにいられますように」の壁をようやく超えることができた。

同時に、静かな時間も少しずつもてるよう復活しはじめた。

どうしても今起こっていることを本当の意味で乗りこえたいから。

その想いと向き合ったとき、そして、自分の中で超えたいと思って手を伸ばそうとしはじめたとき、それはやっぱりひとりではできなくて、自分の人生の中に現れてくれた人と共に超えたいと感じている。

いつも独りよがりで自分のことしか考えられない自分がそう感じるということには驚きだけれど。

その願いと共に、ある人に連絡をとってみたら、ようやく向き合う勇気がでてきたという言葉と力強さを見せてもらい、すごく嬉しかった。

やっぱりひとりでは還れない。

今夜はようやく、自分の中の葛藤と静かに向き合う時間をとれた。

共通して見えてきたものは、身構えて守らなくては攻撃されるといつも責められることを恐れている自分、どちらが愛されているのかという愛を与えられるかどうかを恐れたり比較したりする自分。

「愛されているか」ということについては、一見すると人との関係におけるけれど、究極は神に対して発しているのだと思う。

どちらの方が愛されているのか、どちらの方がいいものをもらえるのか、どちらがよい人生を送れているのか。

仕事でもプライベートでも、脅え、葛藤している根っこはそこにある気がする。

だから、奇跡のコースでは、「特別性」という項目にあれほどページが割かれているのかもしれない。

いつもあたたかさと本当の気遣いをもたらしてくれる上司が大切にしていることは、「どんなことであれ、一旦は認めてあげること」。

どんな思いや葛藤や恐れ、向き合いたくないとか受け入れたくないという気持ちもまずは認めることから始めて、ゆだねていこうと思う。

2016年2月14日日曜日

つながり

今日は誘ってもらい、思いがけずもう一度この前の神社へお礼と、年に一度の大祭に行けた。

まったく計画もなく、予想外のこと。

共に過ごす時間は、なぜだかとても安心できて、ゆるませてもらったり、久しぶりに爆笑したり。

本当にありがとうって言いたい。

この関係の中で目の前の人の肉体がどうであれ、話している言葉がどうであれ、それらはまったく関係がないということを思いださせてもらった気がする。

神事の火を見ながら、たくさんの恐れや不安がわきあがったけれど、目の前の人のコースに戻りたいけれどじたばたしている自分の姿そのものや1ヶ月少々前に遠ざけてしまった人のことが頭に浮かび、本当にそれらは自分自身の恐れと同じなんだと感じている。

支えてくれ、励ましてくれ、まなざしを向けてくれる人々がいる。

もう一度、本当に心からもう一度手を伸ばしたい、そしてどうかひとりではなく一緒に恐れから脱出して共に安心したい、そんな風に思う。

そばにいることとは肉体においての接触がなくてもいい。

心が共にあること、それがつながり安心すること。


恐れと原因

VI. Fear and Conflict

T-2.VI.1.

Being afraid seems to be involuntary; something beyond your own control.

Yet I have said already that only constructive acts should be involuntary.

My control can take over everything that does not matter, while my guidance can direct everything that does, if you so choose.

Fear cannot be controlled by me, but it can be self-controlled.

Fear prevents me from giving you my control.

The presence of fear shows that you have raised body thoughts to the level of the mind.

This removes them from my control, and makes you feel personally responsible for them.

This is an obvious confusion of levels.

奇跡講座 テキスト編(中央アート出版)より

第二章Ⅵ 『恐れと葛藤』

1.
恐れるということは意図せずに起こるように思える。

まるで自分には制御できない何かのようである。

だが、私はすでに、建設的行為のみが意図せずに起こるべきだと述べた。

もしあなたがそのように選択するなら、重要でないすべてのことについては、私が制御を引き受けることができ、重要なすべてのことは、私が指導することができる。

恐れは私が制御することはできないが、あなたが自分で制御することは可能である。

恐れは、私の制御をあなたに与えるのを妨げる。

恐れがあるということは、あなたが肉体にまつわる想念を心のレベルにまで引き上げてしまったことを示す。

これが、そうした想念を私の制御下から取り去り、あなた個人にそれらの責任があると感じさせる。

これが明白なレベルの混同である。


キリストは、心を向けてくれれば身体のレベルのことはすべて教えてあげようと言っている。

今のわたしは、恐れは反射的に起こってしまうし、恐いと感じる原因は外側にある、と信じ込んでいる。

さらには、そう思ってしまう自我に対して、それはいけないことだと自分を裁き、認めてあげなかった。

確かにここ最近の仕事でも、同じような案件や人々が連続し、上司のアドバイス通りに「否定せずに認める」ところから話をもっていけたものはすべて穏やかに終息していった。

キリストは、わたしが自分の選択で違う選択をしたいと思うまで待っていてくれる。

選択したときには全部教えてあげるからねとも言ってくれている。

頭ごなしに自我を否定して無理やり行動を変えようとするのではなく、そうした抵抗や恐れの気持ちを否定せずに受けとめることからはじめよう。

仕事での大きな変化、しかも自我の言い分としてはそんなことは絶対に無理!と思っている。

数ヶ月前、コースの仲間で同じような境遇の人を目にし、避ければ避けるほど恐れが大きくなるのを見せてもらっていた。

今のわたしに必要なことは、異動先の仕事を心配することでもなく、次の仕事に逃げなきゃとあたふたすることでもなく、心のレベル、最初の一点を変えることだけに集中する必要がある。

思いださせてくれてありがとう。

どうかわたし自身が一歩退き、この変化に対して、心から善きこと(恐れなく心からの喜びと共にあること)が起こったと思えるよう心をあなたの方へもっていけますように。

アーメン

2016年2月9日火曜日

孤独と絶望

今朝、半端ない心細さと孤独感とさびしさに泣けて泣けて仕方がない中で目が覚めた。

心にひっかかったわけでもない些細なことが引き金となり、本当はさびしくて心細くて仕方なくて、ほんの少しだけでいいから話を聞いてほしいと思ってしまうのに、どうして自分の周りには話を聞いてくれる人がいないのだろうととても悲しくなった。

人は大きく見える出来事や窮地に陥っている人がいれば、自我によってかわいそうとか助けてあげなきゃとか関心をもったりやさしさを見せたり、一時的にする。

そうでないときは、自分のことで精一杯で、他者のことは攻撃の対象とする以外、どうでもいい。

会社の中で、共に働く職場の人々も、会社にかかってくる電話の多くも、家族を含めプライベートにおける人間関係もほとんどすべてそうだ。

そこにつながりはない。

自分でもどうすることもできないこうしたことに、本当にもう嫌になり、抵抗する気力もなく、ただ泣けた。

そして、諦めと絶望しかないとき、他者などなんの助けにもならない、自分に手をさしのべてくれる人などいないと思い知るとき、決して前向きな理由からでも希望があるからでもないけれど、淡々と真実に手を伸ばすことになるのだと思う。

☆「大いなる恩寵に包まれて」P 211

2016年2月8日月曜日

怒りについて

「奇跡講座入門」より抜粋

P163~

真の問題は、自分の罪悪感のゆえに自分自身に向けている怒りなのです。

ここで危険なことは、これが一時的なステップであることを見逃してしまうことです。

最近の心理学の学説のせいで、私たちはこのこと自体を目標としてしまいます。

そうすると何が起こるかといえば、怒りが偶像として崇拝されてしまうのです。

というのも、他人に対して思いっきり怒りをぶつけることは、実に気持ちがいいからです。

心理学は、決して「真の問題は罪悪感であり、罪悪感は神に対する防衛である」といったことを、私たちに教えてはくれません。

そうなると、怒りの表現そのものが目的となってしまい、それが実にいい気持ちにさせてくれるので私たちはそれを手放したくなくなります。

けれども、私たちの目的は、怒りの根底にある罪悪感に触れて、それに対処することです。

怒りを完全に超えていく過程の一段階としてのみ、私たちは怒りを表現することが必要なのです。

ですから、怒ることが必要だと感じられる時期を私たちが通過するなら、私たちはそれを過渡期と見なして、そうした怒りはたいしたことではないと捉えるべきなのです。

そうすればその後、私たちは真の問題に迫ることができます。

つまり、罪悪感です。

私たちが実際に罪悪感に対処してそれを手放すなら、私たちはその後は二度と怒る必要はなくなります。

ゆるし

『奇跡講座入門』より抜粋

P131~

第一ステップは、「問題は自分の外にあるのではない。自分の中にある」と認めることによって、投影されている怒りを取り消します。

第二ステップは、自分の中にある問題とは自分でつくり出したものであり、もはや、自分では望まなくなっているものであると認めることです。

そして、そのあと、私たちがその問題を聖霊に預けて、聖霊がそれを私たちから取り去ることで、第三ステップが達成されます。

これらのステップは非常にシンプルなもののように聞こえますが、一生かけて成し遂げられれば運が良い方だ、と言えるくらいむずかしいことです。

一朝一夕で達成できるようなものだと思ってはいけません。

一年かけて「ワークブック」を修了すれば天国に到達できるといった魔術的な希望を抱いている人々もいるようですが、「ワークブック」の最後まで行き着くと、そういう希望はくつがえされます。

「このコースは始まりであって、終わりではない」(W-pⅡ. ep.1:1)と書かれているからです。

「ワークブック」の目的は、私たちを正しい軌道に載せることであり、私たちを聖霊の指導下におき、その後は、聖霊と共に生きるようにさせることです。

罪悪感を取り消すことは一生かけて取り組むべき課題です。

私たちの中の罪悪感は実に膨大なものだからです。

その膨大さたるや、もしもそのすべてに一度に直面するようなことにでもなったなら、死んでしまうか発狂するかと思われるほどのものです。

ですから、一度に少しずつ取り扱うことが必要なのです。

私たちの人生を構成するさまざまな経験や状況が、罪悪感のある状態から無い状態へと私たちを導く聖霊の計画の一部として用いられることが可能です。

(中略)

このコースの実践レベルにおける真のゴールは、問題から解放されることではなく、問題とは何であるかを認識し、その後、自分自身の中で、それを取り消す手段を認識することです。


わたしは一体なにをこれほどまでに焦り、思い通りにいかないと駄々をこねているのだろうか。

この道は一朝一夕のものではない。

なにかや結果を得るためのものでもない。

手放すことに葛藤を感じても、できなくて失敗したと感じても、誰かのせいにしてしまっても、機会は何度でもやってくるのだから、自分をそれほどまでに裁かなくてもいいのではないか。

一見この上なくシンプルなものの、一筋縄ではいかない道。

だからこそ、時に誰かのまなざしや励ましやあたたかさが必要で、今、自分にはもったいないくらいにいっぱいそれらが与えられているのだから、あとは進むだけなのではないだろうか。

2016年2月7日日曜日

特別性

「奇跡講座入門」より抜粋 P103~

したがって、この世界が愛と呼ぶものは、実際には特別性であり、真の愛が甚だしく歪曲されたものです。

これと同じような種類の力動(ダイナミックス)を表現する別の言葉は、「依存」です。

私は、自分の必要を満たすためにあなたに依存するようになり、あなたもあなたの必要を満たすために私に依存するように仕向ける、というものです。

二人が共にそれを行っている限り、すべてはうまくいきます。

これが、基本的に言って、特別性というものの意味です。

その意図は、私たちの中に知覚されている欠乏を補うために、誰か別の人を使って空洞を埋めるということです。

私たちは、対人関係において、最もはっきりと、また最も破壊的にこれを行っています。

けれども、物質やものごとを相手に、同じことをすることも可能です。

たとえば、アルコール中毒の人は、自分の中の空虚感を、酒瓶との特別な関係を通して満たそうとしています。

過食症の人も食べることを通して同じことをしています。

狂ったように何かに熱中する人々、たとえば、やたらに大量のたくさんの服を買い込むとか、大金を儲けるとか、数多くの物品を手に入れるとか、この世界の中の特定の地位を獲得しようとするなどといったことも、同じです。

これは、私たちが自分の中で自分自身についてやるせない気持ちを感じているときに、自分の外で、何か自分を良い気持ちにしてくれることをすることによって、それを埋め合わせようとする試みです。

「テキスト」の最後の方に、「あなた自身の外を探してはならない」(T-29,Ⅶ)という非常に美しく、力強いセクションがあります。

私たちは自分の外を探しているとき、常に、偶像を探しています。

『講座(コース)』では、偶像とは、神の代替と定義されています。

本当は、神のみが、この必要を満たすことができるのです。

攻撃と防衛

『奇跡講座入門 講話とQ&A(ケン・ワプニック/著)』より抜粋 P90~

自分自身を防衛する必要が大きくなればなるほど、私は自分に罪があるという事実そのものを強化することになります。

これはまた、自我に関して理解すべき重要な原則の一つでもあり、おそらくそれを最も明確に述べているのが、「テキスト」の中の次の一文です。

「防衛は、それが防ごうとしているまさにそのことを行う」(T-17.Ⅳ.7:1)。

すべての防衛の目的は、自分自身の恐れから自分を守ることです。

もし私が恐れていなかったなら、防衛など必要ありません。

けれども自分が防衛を必要としているという事実そのものが、自分は怖がらなければならないと告げています。

なぜなら、もし私が恐れていないのなら、わざわざ防衛などする必要はないからです。

私が自分を防衛しているという事実そのものが、私が恐れているという事実と、自分は有罪なのだから怖がるべきだという事実を強化しています。

ですから、自分を恐れから守ってくれるはずの防衛そのものが、恐れを増強しているのです。

したがって、自分自身を防衛しようとすればするほど、私は自分が自我であるということ、つまり、罪深く、罪悪感と恐れを抱いている存在であるということを、自分に教えていることになります。

自我は本当に抜け目がありません。

自我は、私たちに自分を防衛しなければならないと確信させますが、私たちはそれを実行すればするほど、ますます罪悪感にさいなまれるようになるのです。

自我は、私たちに自分の罪悪感から身を守るためにはどうすればいいか、数多くの方法を教えますが、自我が差し出す保護そのものが、この罪悪感を増強するものに他なりません。

だから、私たちはただぐるぐると回り続けているのです。

「ワークブック」には、「防衛しないことの中に、私の安全がある」(W-pⅠ.153)という素晴らしいレッスンがあります。

もし私が、自分は真に安全であり、自分を真に保護するのは神であると本当に知りたいのなら、そのための最良の方法は、自分自身を防衛しないようにすることです。
だから、私たちはイエスの最後の日々について語る福音書の中に、彼は自分を一切弁護しなかったと伝える文面を見いだすのです。

捕らえられたとき以来、あなどられ、むち打たれ、迫害され、殺されるまでの間ずっと、イエスは自分を弁護しませんでした。

そして、そのときイエスが言わんとしていたことは、「私は防衛を必要としていない」ということでした。

なぜなら、「ワークブック」の中にあるように、「神の子は、彼の実相の真実から身を守る防衛を必要としてはいない」(W-pⅠ.135.26:8)からです。

私たちが自分が誰であるのか知っていて、また、私たちの父、つまり天国の父なる神とは誰であるのかを真に知っているとき、私たちは自分自身を守る必要はありません。

真理に防衛は必要ないからです。

けれども、自我の思考体系の中では、私たちは保護されることが必要だと感じ、したがって、常に自分を防衛することになります。

ですから、この二つのサイクルは、自我の手口全体を維持するという役目をしっかりと果たしているわけです。

罪悪感を感じれば感じるほど、私たちは攻撃を強めます。

攻撃すればするほど、ますます罪悪感はつのっていきます。

そして攻撃を続けると、予測される処罰や反撃から身を守ろうとして自分を防衛する必要を、ますます感じることになります。

そして、そうした防衛そのものも、また攻撃に他なりません。

とても心細いとき、外側に答えや救いを求めようとしてしまう。

なにをおいてもという強い意志力をもちつづけるためのエネルギーが枯渇してしまっている今、今一歩、真実に手を伸ばすことが難しく、幾度も幾度も揺らいでしまう。

そんなときにはどうしても物理的に助けてくれる人や気晴らしに頼りたくなってしまう。

でも、そこにはなにもない。

それをしたくなっている自分の心はなにを感じ、なにを信じているのか。

なにがあれば満たされると感じているのか。

仕事のストレスから一時的に解放されても、つきまとう空しさは消えず、平穏ではない。

そして、拠り所となるものは、八百富神社で見せてもらったように、外側がいくら嵐のように強風でも風ひとつ吹かない影響されない内側の圧倒的平穏さ。

そこが本当にくつろげるホーム。

まったくなにも感じることも信じることができなくても、ただひたすらにそんな自分を聖霊のまなざしを借りて見守り、待ちつづけること。

今日はもう一度そんなまなざしを自分に向けたい、そんなことを感じてる。