2016年4月30日土曜日

テキスト 第17章Ⅳより

8.
自分では理解していないものを、喜んで受け入れなさい。

その関係の目的がその中で働いてそれを神聖なものとしていく様を知覚することで、それがあなたに自ずと説明されていくに任せなさい。

その関係の「失敗」を兄弟のせいにして責めたくなる機会をあなたは何度も見出すだろう。

なぜなら、その関係は時として、何の目的もないように見えるからである。

目的がなくなったような感覚があなたにつきまとい、自分がかつて満足を追求し、満足を見出したと思ったときのことをすべて思い出させるだろう。

そのときにあなたが見つけたのは本当は惨めさだったことを、今になって、忘れてはならない。

そして、衰えつつある自我に生気を吹き込んではならない。

あなたの関係は引き裂かれたのではない。

それは救われたのである。

Ⅳ「赦しと神聖な関係」より

2016年4月27日水曜日

ひとつの転機が訪れている気がして仕方がない。

具体的に何かが始動しているわけでもなく、目に見える形で変化があるわけでもないけれど。

仕事において、少し前よりも自由に要領よくこなせるようになったり、凝り固まった感じでなくコミュニケーションをとることも少しずつできるようになった。

それと同時に、今の仕事や職場がとても退屈に感じてしまったり、枠組みに収まらない自分がいて、奔放に飛び出したりチャレンジしたくて仕方がない感じがつづいている。

毎日嫌だと感じたり、面倒くさかったり、一日中イライラしている日ももちろんあるけれど。

こんな自分の気持ちを持てあましていて、恐くて不安で、でも、恐怖や不安を超えてしまう何かもあって。

もうどうしていいのかわからない。

感覚に付随する物語にふけらずにただ観察すること、執着しないことによって、快楽に逃げたり痛みから目を背けたりする必要がなくなる。

すると、人生に丸ごと向きあうという自由を得る。

それは、もっと軽やかに、幸せに、のびのびと生きる自由だ。

痛みが及ぼしていた力は徐々に小さくなり、自分の心身に備わった可能性がひらけてくる。

そうやってより自分らしくなれば、美しい人生や喜びを手に入れやすくなるのだ。

『「夢をかなえる」自分になる』より抜粋

2016年4月19日火曜日

分離の信念は、個人の心と思考を信じるところから生じています。

その信念は、罪の幻想を誘い出します。

ですからそれは、過ちとして明らかにされなければなりません。

啓示や救いは、単に、過ちを過ちとして見ることです。

その区別は、ホーリースピリットの優れた判断力と知覚で行われます。

自らの心をホーリースピリットと見るというあなたの意志は、愛に道を譲り、すべての判断と比較を転換させ、現在の瞬間へ心を開かせます。

『覚醒へのレッスン』P164より抜粋

2016年4月17日日曜日

感情について

湧き起こってくる感情は、否定したり押しのけたりしないことがいちばんです。

感情を取り消して手放すには、それらを意識へ浮上させるのが大事だからです(レッスン333参照)。

感情が意識に上ると、その感情が動揺や不快感であっても、贈り物のように感じられるでしょう。

心の変化、つまり奇跡を求める働きとして見られるようになるからです。

感情は、いかなるときも、その人がどちらの声を聞いているかを示します。

したがって、それらは、心に耳を傾けるための規律の中で重要な機能を果たしています。

心とは、決断そのものです。

決断は、あなたが信じているあらゆることに基づいた結論であるということを覚えておいてください。

無意識の心は間違った信念です。

それが完全に取り消されるまで、心の平和と苛立ちの狭間で、動揺を感じるでしょう。

ですから、信じているすべてを疑問視することが、コースやあらゆる真の精神修養の趣旨です。

過ちを理解し分析しようとすることより、疑問視することがより重要なのは確かです。

エゴはただゆるされて変容するだけなので、決して本当に理解されることはないからてます。

『覚醒へのレッスン』P151より抜粋

※ レッスン333 「ここでは赦しが葛藤という夢を終わらせます。」
http://lesson.spiritual-counseling.info/acim/333

2016年4月12日火曜日

とっても胃が痛い。

久々に人間関係で苦痛と孤独と泣き出したい気持ちを味わっている。

たぶん、小学生以来。

これまでどこかに答えや正解、あるいはこれさえ頑張れば大丈夫というものを求めつづけ、偶像を見いだそうとしてきた。

それらやそこへの期待がなくなった今、とても恐くてたまらないし、何をどうすればいいのかわからない。

明日もあの孤独と疎外の職場にいくのが嫌でたまらない。

でも、ただ自分の中の錯覚を取り消して赦しつづける。

黙々と、誰よりもそこへの思いだけはもって生きたい。

それはわたしの思いではなく、色んな人たちにあまりにも多くのものを与えてもらったから、そう生きたいと思わざるを得ないのだ。

2016年4月6日水曜日

辛い、しんどいと思いたくなることでいっぱい。

朝どれほどやりたくなくても、とにかく欠かさず、呼吸から始めてノートに思考を自動書記する時間を取っていなかったら、毎朝ベッドからでられなかったかもしれない。

不思議なことに、色んな抵抗を通り抜けてその時間を作ることで、とりあえずは身体の痛みと無気力から毎朝脱け出せ、むしろその後は気持ちよく朝の時間を過ごせる気がする。

今朝は本当にもう無理!というぐらい疲弊していたのが、その後、ちゃんと気力がでてきたからびっくりだ。

自我の抵抗であり、幻想なのだな、なんて巧妙なんだと思った。

なんとなくレッスンも再開し、今、毎日毎日思っていることは、感じている感情や不幸というものに浸り続けたいのかどうか、このドラマに浸り続けたいのかどうか、ということ。

親からは容姿や仕事のことで全面否定され、職場ではひどければ無視に近い状況だったり、溶け込めなくて孤立してしまったり。

どれほど頑張ったところで、自分の事案ではない対応に負われ、目に見えない部分でのことばかりだから、誰にも評価も感謝もされず、事案に配慮があるわけでもなく、やりきれない気持ちになることもしばしばだ。

幾度も幾度も孤独を感じ、怒りを感じ、不満を感じ、すべてをやめたくなる。

それでも、本当にもう飛躍したい、これまでと同じ繰り返しはもう嫌だとだけは思っている。

置かれている状況からも、それができるタイミングだとも信じている。

変えるのは相手でも状況でもなく、自分の心から錯覚を取り除くこと。

ただただやりつづけること。

2016年4月2日土曜日

途方に暮れること=全面的降伏=自分はなにも知らないと価値判断をすべて退けること

今、とてもとても恐い。

そして、本当に途方にくれている。

これまでとは違う一歩を踏み出したいと思う一方で、なにをやればよいのかもやり方もわからず、答えも訊く人もいないから。

また、それは外側に答えを求めるものではない、ということだけは感じているから。

そこに対して嘆きや怒りや攻撃の思いは感じていない。

さびしい、孤独だ、不安で恐いという思いはある。

攻撃の思いなく途方にくれていることを認めてみたら、やっぱり内側に、見えない存在に向かうしかなかった。

今世において、なんとなく生きることや嫌なことは避けて通ることを選択することもできそうな気はするけれど、逃げずに味わいきること、選択に責任をもって生きることをしたい。

どうしてもその一歩を踏み出せないでいるけれど。

今日はあることから、あらゆることに対して、今の自分にはこれが足りなくて欠けているから踏み出せないと感じていることが腹に落ちた感じがする。

能力も体型も話術もなにもかも全部足りない。

同時に、両親からも他者からも今のこの自分を認めてもらえていないことに葛藤を感じていると思う。

それが見えたとき、せめて自分だけは今のこの自分に対して認めたい、このままの自分の存在を許したいと思った。

○○という条件があればスタートできたり変われるのではなく、今のこのままから始めること。

そして、どうすればいいのかはわからないけれど、新しいものや色んな人とふれあうことが必要だととても感じている。

Nothing truly valuable arises from ambition or from a mere sense of duty: it stems rather from love and devotion towards men and to wards objective thing. (A. Einstein)

本当に価値のあるものは野心や義務感からでなく、人間や自分が向き合うものごとへの愛情と献身から生まれるものでしょう。