2016年1月24日日曜日

翻訳

少し前、奇跡のコースの翻訳もしている人からこんな話を聞いた。

奇跡のコースは文字で文章を読んだり理解することではなく、言葉を扉として伝わってくるものをただ受け取っていくこと、と。

自我はすぐに理解できたできない、わかったわからないという判断をしたがるけれど、そうではなく、広がっていくものを感じていくこと。

同時に、翻訳は、ひとつとして、その受けとったものや感じたものを込めること、読み手とわかちあえるように伝えることかもしれないと耳にした。

わたしに奇跡のコースを教えてくれている人たち(コースを真に生きつづける姿を見せてくれる人たち)は、たまたまかもしれないけれど、最終的にどの方も自分で翻訳をしたり文字にしたりしている。

初め、師のその姿を見たとき、気の遠くなるような作業で、そんなことをするなんて信じられないし、ただただすごいなぁと思って眺めていた。

でも、コースを真に学ぼうとしたとき、言葉にできないものを受けとる中で、今、わたしもいずれ時期がきたら、全部翻訳してみたい、それは本当に楽しそうと感じている。

ただただ自分のためだけに、コースを読みながら翻訳をしていくこと、それは半端なくわくわくするし、とても贅沢な時間に思う。

今年は、少しずつでもまずは原文に慣れることをしたい。

2016年1月23日土曜日

「救いに対する恐れ 」より抜粋

"A Course in Miracles" Text

T-13.III.8.
Beneath all the grandiosity you hold so dear is your real call for help.

For you call for love to your Father as your Father calls you to Himself.

In that place which you have hidden, you will only to unite with the Father, in loving remembrance of Him.

You will find this place of truth as you see it in your brothers, for though they may deceive themselves, like you they long for the grandeur that is in them.

And perceiving it you will welcome it, and it will be yours.

For grandeur is the right of God’s Son, and no illusions can satisfy him or save him from what he is.

Only his love is real, and he will be content only with his reality.

T-13.III.9.
Save him from his illusions that you may accept the magnitude of your Father in peace and joy.

But exempt no one from your love, or you will be hiding a dark place in your mind where the Holy Spirit is not welcome.

And thus you will exempt yourself from His healing power, for by not offering total love you will not be healed completely.

Healing must be as complete as fear, for love cannot enter where there is one spot of fear to mar its welcome.

奇跡講座 テキスト編 (中央アート出版)
第13章Ⅲ「救いに対する恐れ 」より

8.
あなたがそんなにも大切にしている尊大さの背後には、助けを求めるあなたの真の呼びかけがある。

父があなたをご自身のもとに呼び戻そうとしているのと同じように、あなたは父に愛を求めて呼びかけているからである。

あなたが隠してきたその場所では、あなたは愛に満たされ、神を覚えており、ただ父とひとつになることのみを意志する。

その場所を兄弟たちの中に見るとき、あなたはこの真理の場所を見つけるだろう。

彼らが自分自身を欺くことがあっても、あなたと同じように彼らもまた自分の中にある壮大さを切望しているからである。

そしてそれを知覚することによって、あなたはそれを歓迎することになり、それがあなたのものとなるだろう。

なぜなら、壮大さとは神の子の権利であり、いかなる幻想も、彼を満足させることはできず、彼を彼自身の本性から救い出すことなどできないからである。

彼の愛のみが実在しており、彼は自分の実相にしか満足することはない。

9.
彼の作り出した幻想から、彼を助け出しなさい。

それにより、平安と喜びの中であなたが父の偉大さを受け入れられるようになる。

しかし、あなたの愛から誰も除外してはならない。

そのようなことをすれば、あなたは聖霊が歓迎されない暗き場所をあなたの心の中に隠しもつことになる。

そうして、あなたは自分自身を聖霊の癒しの力から除外する。

全的な愛を差し出さないことにより、あなたは完全に癒されることはなくなるからである。

癒しは恐れと同じく完全でなければならない。

愛は、それを歓迎することを阻む恐れが一つでもあるところには、入っていけないからである。

意味を考えないこと

最近、陥りがちな自我。

自分が生きていること、今の仕事をしていること、感じていることなど、そこに対して知らず知らずに意味を考えてしまい、答えのない迷路の中でさ迷いそうになる。

真実の側からすれば、意味を考えること、わかろうとすること自体に意味がない、と師は伝えてくれる。

花がなにかを考えるわけでなく、ただただ生命に響明して生命のままに咲いているように。

どうしてもあらゆることに対して、ここにいることややっていることや存在意義というものを考えたくなったり、無意味感を感じてみたりということをしてしまうけれど、自我とはそういうものとして相手にしないようにしよう。

ただ目の前のことだけを、見ている世界に責任をもって、心に誠実に全力でやってみること。

自我に力を与えるのではなく、ただ淡々とやりつづけることだけをやろうと思う。

2016年1月18日月曜日

信頼と本当の愛

奇跡のコース ワークブック編
Lesson159より

"I give the miracles I have received."

8.
Christ’s vision is the holy ground in which the lilies of forgiveness set their roots.

This is their home.

They can be brought from here back to the world, but they can never grow in its unnourishing and shallow soil.

They need the light and warmth and kindly care Christ’s charity provides.

They need the love with which He looks on them.

And they become His messengers, who give as they received.

『私は自分が受け取った奇跡を与える。』

キリストの心眼(ヴィジョン)は、赦しの百合の花が根を張る神聖な大地である。

ここがそれらの故郷である。

その百合の花をそこから世界に持ち帰ることはできるが、それらはそのやせた浅い土壌では決して育たない。

光と温かさと、キリストの慈愛がもたらす心のこもった世話が必要である。

キリストのまなざしがもつ愛が必要である。

そしてそれらの花はキリストの使者となり、受け取った通りに与える者となる。

(奇跡講座 中央アート出版より)

ある人がこんな風に話してくれた。

わたしたちは、必要なときに必要なものをさしだして、あとは信頼して見守るの、と。

それは、さしだした花が根づいて咲く準備が整うまで、よい土を作って水や肥料を与えて見守り、花を咲かせられる段階にきたら手放すことと同じ。

手放すということは、信頼がないとできないこと。

数年前、初めて本当に癒されたいと心から思って師と話をしたとき、師は同じことを言ってくれた。

種は植えたのだから、あとは水や肥料をやって、時期がこれば必ず咲くのだから大丈夫だよ、と。

その日から、本当にあたたかい師のまなざしの中で、水や肥料、時には陽の光をいっぱいいっぱいもらい、のびのびと育んでもらった。

そして、信頼して、突き放してくれたこともある。

今の職場の上司も、私が躓きかけていると一緒にその石をどけて環境を整え、咲くことができるようにと本当にあたたかいまなざしで見守ってくれている。

この話をしてくれた人も、いつもいつも絶対的な信をおいて見守り、励まし、勇気づけてくれる。

言葉ではない部分で、自分がどれほど与えられ、尊重され、本当の愛を受けとっているのかに気づき、涙が止まらない。

今は全面的に真の自己の意志力にまだコミットしきれない自分がいる。

それでも、今、わたしができることは、ただただ真実だけを見たいという方向へ自分の意志力を向けつづけること、そこに対して諦めないこと、毎瞬を自分の選択として責任をもつこと、そして、できなかったときにも責めないであたたかいまなざしを自分自身に向けること。

これだけだ。

これほどまでに周りにそうした姿を見せてもらえているのだから、もう一度選択し直したい。

2016年1月16日土曜日

復習Ⅰ 序 より抜粋

奇跡講座 (中央アート出版)より

(中略)

主題概念とコメントを読んだ後は、できれば、静かな場所でひとりになれるときに目を閉じて演習を行うようにする。

今のあなたの学びの段階では、そうした条件下に練習することが重視される。

しかし、学んだことを適用する際に特別な環境は必要ないということを、いずれ学ばなくてはならない。

すでに穏やかで静まったかに見える状況よりも、動揺させられるような状況の中でこそ、こうした学びが最も必要とされる。

あなたの学びの目的は、あなたがいつも静けさを携えていられるようにすること、そして苦悩や混乱を癒すことができるようにすることにある。

それらを避けて、自分ひとりになれる避難所を求めていたのでは、この目的は達成されない。

平安はあなたの一部であり、あなたはただそこにいて、自分が置かれたどんな状況でもそのまましっかりと経験するだけでよいということを、あなたはいずれ学ぶことになる。

そして、最後には、あなたは自分がいるところには限界がないことを学ぶだろう。

それにより、あなた自身と同じく、平安もあらゆるところに遍在するということがわかるだろう。

仕事をしながら自我が訊きたがること

I AM THAT
ニサルガダッタ・マハラジとの対話 より抜粋 P276

質問者:
至高の実在(パラブラフマン)は、私たちすべてに内在しているかもしれません。

しかし、それが私たちにとって何になるというのでしょうか?

マハラジ:
あなたはあたかも「私はものをしまう場所が必要だ。だが、空間が何の役に立つというのだろうか?」あるいは、「私はミルクか紅茶、コーヒーかソーダがほしい。だが、水は何の役にも立たない」と言っている人のようだ。

至高の実在がすべてを可能にしているということが、あなたにはわからないだろうか?

だが、もしそれが何の役に立つのかときくならば、「何の役にも立たない」と言わねばならない。

日々の生活においては、実在を知る人には何の利点もないのだ。

むしろ、彼は不利な状態にあると言えよう。

欲望と恐れから自由な彼は、自分自身を守ろうとしないからだ。

利益という概念自体が、彼にとっては異質なものなのだ。

彼は増加や増大を嫌う。

彼の人生とは、絶え間なく己から剥ぎ取り、分かちあい、与えることだ。

2016年1月15日金曜日

心理療法 序文より

Sometimes he is able to start to open his mind without formal help, but even then it is always some change in his perception of interpersonal relationships that enables him to do so. 

(A Course in Miracles)

2016年1月11日月曜日

恐れという選択

今日、急遽決断してクラスに参加してみた。

話を聞いたり瞑想をする中で、自分が恐れの塊により、感じることを閉ざすことを選択しつづけていることに気づいた。

恐いから殻に閉じこもり、自分でも気づけないほどの分厚い覆いで隠してしまった。

そこから脱出したいという意志力を持てないでいたけれど、その状態は、恐れにも気づかないでいられる代わりに、わき上がるような喜びや真実の自己の声さえもまったく聴こえなくする選択だと知った。

これほどまでに恐れているのなら、どうかそこからは脱出したいし、恐れを感じたとしても、それが幻想だと知る選択をしたい、心からそう思う。

今はまだ、感じられる部分と分厚いベールによってぼんやりした気持ち悪い部分がある。

それでも、私は恐れにより防御しているその恐れはまず聖霊に預けよう、預ける意志力をもとうと決めた。

そして、久しぶりに怒りそのものがしばらくでてきて、意味付けのないただの怒りが放出されることは、ただただ気持ちよかった。

もう一度聖霊の手をとって歩みたい、心からそう思う。

自我のベールによってそれが感じられなく空しく響いたとしても、信を置きつづけることを今日自分に誓う。

そして、一年前と比べるとそのコミュニティがじわじわと変わりつつあることを目にし、「観たい」というまなざしや癒しの半端ない影響力に、私もそうありたいと思う。

なんだか知らないけど、受け入れられちゃってたことにもびっくりだ。

2016年1月10日日曜日

深い静けさ

「大いなる恩寵に包まれて(アジャシャンティ 著)」より抜粋

まず第一に、シンプルでありながらパワフルな自己観察をしなければなりません。

あらゆる考え、すなわち良い考え、悪い考え、楽しい考え、邪悪な考えすべては、何かの「中で」沸き上がっています。

すべての考えは、生まれては広大な空間へと消えていきます。

自分のマインドを観察してみれば、考えはただ単に勝手に生まれて来るのがわかるでしょう。

自分の意志に関係なく沸き上がっているのです。

人は湧いてきた考えに反応して、それを掴み取り、それと一体となるように教えられています。

ほんの一瞬でも、考えを掴みたいという性向を手放すことができたなら、とても深遠な何かに気づき始めます。

それは考えとは、広大な空間の中で自然発生的に勝手に生まれ、展開しているものであり、騒がしいマインドは実は極めて深い静けさの感覚の中に現れているということです。

わたしへ

目の前の問題を解決するのではなく、根本的な部分(根っこ)をどうにかしたいと模索して5年少々。

奇跡のコースと出会ってからはちょうど2年半。

その間、確かに予測不能な助けや導き、いっぱいあった。

ドン底を感じるたび、色んな形で手助けが与えられてきた。

それでも、今、どこかで心が折れてしまい、真実を求める自分に冷めた視線しか送れず、助けが与えられることにも確信がもてない。

糸がぷつりと切れてしまい、身体はエネルギーを取り戻しても、心は病気のまま。

コースの言葉も素通りしてしまうし、そこに対して、自我と自分は別なものであり、自我の声には耳を傾けないという全面的な意志力をもとうとすることが難しい。

でもね、もう一度、もう一度だけ、テキストや自我というものに向き合ってみたらどうだろう。

言葉が入らなくても、取り組む自分を馬鹿にしてても、状況への自分の感じ方が変わらなくても、もう一度だけ、朝のテキストの時間だけは取り組んでみてはどうだろうか。

きっと、どこかで諦めきれていないから、悶々としてしまう。

祈れなくても、信じられなくても、感謝できなくても、手を伸ばそうとできなくても、ただテキストとふれてみる時間だけは持ちつづけることに、もう一度だけ挑戦してみよう。

本当の自分が求めているものが、期待はずれでこんなものかと思ってしまうようなものなのではないかとどこかで恐れている。

それでも、もう一度だけチャレンジだ。