2015年4月28日火曜日

ダメなわたしを演じてみる

「自分はダメ」というオチ。

師より、なにかそのアイデンティティをもつことで守れる(メリット)と自我が思っていることがあるかもねっていうヒントをもらってる。

今は職場において、ダメな自分を攻撃し、裁き、痛みを感じてるから、その知覚を疑ってみようというところ。

師と話をしたからなのか、ダメでできない自分が真の自己ではないと知りながらなら、思いっきりできない社員をやってみてもいいんじゃないかって思うようになった。

大切なのは、それが真実の自分ではないと立ち返らせてもらいながら、演じきること。

なんだかちょっとだけ楽になったし、キャパがちょっとふえたみたい。

上司には、あたたかいまなざしの中でダメな私を存分にやらせてもらえることに、なにより感謝している。

2015年4月22日水曜日

ちょっとへんな話

便秘(う○ちがたまること)と感情がたまることは同じかも。

先週は突然涙が溢れだして止まらないってことが何度もあった。

今夜は、仕事が終わっても、会社の最寄り駅まで歩けないくらい気力がでず、珍しく友人にひたすら話を聞いてもらい、感情が限界を迎えてたって気づいた。

この数週間、ひどい便秘で苦しかったけど、感情がなにかの形ででるたびに、う○ちもその分だけちょっとでるみたい。

突然風邪をひいたり、体温調整がうまくできなかったり。

職場の人々に色んなことを感じていたのに、全部押し込めてた。

やっぱり根底にあるのは「無価値観」。

Yさんに見下されて無視されること、後輩にも下に見られること、仕事量が一気にふえて手に負えないこと、ひとりだけ職場で入り込めず会話する相手がいないこと、ひとりだけ情報を教えてもらえないこと。

私はいてもいなくても同じで空気みたいだし、役立たずという視線を痛いほど感じてしまう。

それらの無価値観を感じていることに気づけたとき、ちょっと安堵した。

これでやっと聖霊に助けを求められる。

ワークブック

友人が再びレッスンを始めるきっかけをくれた。

テキストを読むことよりも、レッスンを行うことの方がちょっと億劫で、なかなか再開できなかった。

今はレッスンメールを送らせてもらえるし送ってもらえるから、やろうって思えてる。

きっと赦しと同じで、実際に適用することが習慣となってないから、レッスンを苦とか億劫に感じるのかもしれない。

一緒に進んでくれる仲間がいることはずいぶんと励まされる。

なにがあっても、レッスンメールを送り続けることをやめないでいたい。

彼には心より感謝してる。

ありがとう。

2015年4月10日金曜日

裁き

会社で与えられたせっかくの赦しの機会、明らかに無駄にしてしまってる。

定期的にお休みを繰り返す彼女を、言葉にださなくても責めている。

彼女のせいで、わけわからない電話がふえる。

彼女のせいで、身体がしんどすぎたときも休めなかった。

彼女のせいで、半端なく仕事がふえた。

彼女のせいで、みんなぴりぴりしてる。

手続きするか、いい加減でてこいよ!

一日中仕事しながら、どこかで苛々したり、悪態をついたり。

自分の中のこれらの思いや裁きは、明らかに自分に対してもやっている。

よく考えてみれば、一昨日どん底に落ちたのも同じこと。

きっと聖霊にゆだねたときには、彼女はわたしのこの上ない救い主になる。

今からでも遅くないから、彼女のスピリット(神聖性)を見れるようお願いしてみよう。

観るにあたってわきあがるものは取り消しを依頼しよう。

2015年4月8日水曜日

評価の神

「評価」を明確にわかる形で伝えられた。

あまりに衝撃すぎて、表情筋が動かなくなった。

明日からどんな顔して会社に行けばいいんだろう。

期待に応えられなかった。

むしろ大きく下回った。

再度休職となる勢いで。

自我はそこに対し、わたしは無価値であり、存在そのものが許されないと思わせようとする。

消えたくて、居たたまれない気持ちでいっぱい。

でも、ここから脱出するには、ちゃんと恐れを直視し、自分で手をのばそうとするしかないことは理解している。

師がどん底まで突き落としてくれたから、痛いほどよくわかる。

今夜は道端のお花たちに励まされ、KOKIAの「生命の光」に涙し、なんとか生きてる。

今週はあと2日、がんばれ。

2015年4月7日火曜日

待つこと

師のまねをして、アボガドの種を育ててる。

水につけて、早一週間弱。

毎日水をかえながらも、外側からはまったく変わらないように見え、早く〜って思ってしまう。

そして、本当に大丈夫かしら、間違ってないかしら、とも。

奇跡のコースやめざめに対しての姿勢とまったく同じ。

焦っちゃいけない。

まなざしを向けて待っててあげなきゃ。

アボガドの種も、内側ではどんなことが起こっているかは外からはまったく見えない。

でも、まなざしを向け、水をかえてあげることで、ある日ひょっこり発芽する。

このところ落下気味かつ赦しに向かえない自分がいる。

そして、めざめの過程を辿っているのか不安に陥ることもしばしば。

それでも、自分の中で本当はなにが起こっているのかを知ることはできないし、ただまなざしを向けて待っててあげようと思う。

今日は、もう一度手をのばしてみようかなぁという思いがひょこっと顔をだしはじめた。


2015年4月6日月曜日

恐れにじたばた

一日に何度もやってくる目眩や頭痛にちょっぴり不安で心細かったこのところ。

たった数分の静かな時間さえ作ろうとしていなかった。

今夜、お風呂の中でいろんなことをふりかえってみた。

仕事のこと、身体のこと、人間関係。

「感じていること、こうだと思っていることは本当ですか?」って問いを発してみる。

いかに自分がじたばたしているか、出来事や恐れを実在するかのようにしているか、はっとした。

いついかなるときも、この瞬間にも存在しつづけている穏やかさにふれようとしてみよう。

よくわからないけれど、今夜は、実在の穏やかさ、脅かされない揺るぎなさが存在していることだけはなんとなく感じた。

そして、師が戻ってきてくれて嬉しいと同時に、また無意識の中で頼ろうとしている自分がいる。

助けをもらうことは悪いことじゃない。

でも、自我の好き勝手に相手を見てしまうことは悲しいこと。

もう一度、心から手をのばしてみよう。

もう一度、リセットしてみよう。

2015年4月2日木曜日

邪魔だてしないこと

〜『覚醒へのレッスン』より〜

罪のなさは、法則や方法や世界に対する思考によって縛られていません。

自由です。

信頼と共に次の一歩を踏み出すなら、命が命を支えてくれます。

充実感と幸福感は、判断を下さないシンプルな姿勢と愛の放射から生じます。

また、この世界が何のためにあるかについて、知っているつもりのアイディアを手放すことによって生まれます。

その旅は、単に、真に存在しているものに道を譲る降伏です。

あなたが風向きを支配しようとするのをやめるとき、神の静寂の羽根が、あなたのもとへ優しく訪れます。

あなたとは、神聖な心がじゅうぶんにくつろいでいる状態です。

自らの深い内側にある、あなたという存在にひたってください。

親愛なる兄弟たちへたくさんの祝福を

デイヴィッド

2015年4月1日水曜日

聖霊からの言葉

聖霊が、わたしの口を使ってどちらもに言葉をくれたとき。

受けとれたのはたった数回だけど、そのメッセージは忘れられない。

最近は疲れすぎて人の言葉が入ってこなかったり、いろんなことをすぐに忘れてしまう。

にも関わらず、聖霊がもたらしてくれたときは、その言葉も空気も場面も、くっきり明確にアクセスできる。

その邪魔立てはしたくない。

ひたすらに道具になりたい。

そうでなければ、わたしの中の光は思いだせないから。

コントロール

一体全体、そこまでコントロールしないと気が済まないのはなぜなのか?

その人の中にも母の中にも見てしまうコントロール。

共通の人との関係において、激しく牽制される。

それに対し、激しく怒れてしまう。

その狡さも大嫌い。

今日のわたしは彼女を裁きたい。

彼女に対し、一緒に牢獄からでようってどうしても思えない。

一体その奥底にある恐れはなんなのか?

わたしも、誉められたい、認められたいって思いから行動してしまったのかしら?

特別性を見ることなく、どの出逢いもどの瞬間も等しく尊いものとしたい。

特別性

ある人との時間が他の時間よりも特別に大切に思えるとき。

他のあらゆる出逢いをきっと心のどこかで踏みにじってる。

どんな出逢いも、目の前にいてくれる人は救い主であり、圧倒的な与え手。

どの瞬間も等しく聖なる一瞬に本当は変えられる。

今のわたしは努力中。

なんどもなんども自我の声に耳を傾けてしまいながらも、なんどもなんどもそうでない選択をしたいとぶつかってみる。

ある人から幾度もコントロールを受けたことに今更ながらとても怒りを感じている。

かなりふつふつと。

でも、その怒りに乗ったら、わたしも彼女と同じ特別性を握りしめてしまう。

困った瞬間、はっとさせてくれたのが冒頭の言葉。

わたしへ

言葉を超えた叡智にふれたとき、その体験は言葉では決してわかちあえない。

言葉にした途端、各々の分離した視点からの解釈が入ってしまうから。

あるいは、自我の概念においては、傲慢に聞こえてしまうこともあるだろう。

本当は、自我の概念こそ傲慢なのだけど。

誰かになにかを伝えるためでなく、ただ自分の素直な気持ちと体験のおぼえがき。

ただひたすらに誠実に。

自分の中の光を見ようとしつづけること。

目の前の相手を通して、本当のわたしを思いださせてもらうこと。

与えることと受けとることはひとつ。

そこにはきっと深い畏敬の念しかないだろう。