少し前、奇跡のコースの翻訳もしている人からこんな話を聞いた。
奇跡のコースは文字で文章を読んだり理解することではなく、言葉を扉として伝わってくるものをただ受け取っていくこと、と。
自我はすぐに理解できたできない、わかったわからないという判断をしたがるけれど、そうではなく、広がっていくものを感じていくこと。
同時に、翻訳は、ひとつとして、その受けとったものや感じたものを込めること、読み手とわかちあえるように伝えることかもしれないと耳にした。
わたしに奇跡のコースを教えてくれている人たち(コースを真に生きつづける姿を見せてくれる人たち)は、たまたまかもしれないけれど、最終的にどの方も自分で翻訳をしたり文字にしたりしている。
初め、師のその姿を見たとき、気の遠くなるような作業で、そんなことをするなんて信じられないし、ただただすごいなぁと思って眺めていた。
でも、コースを真に学ぼうとしたとき、言葉にできないものを受けとる中で、今、わたしもいずれ時期がきたら、全部翻訳してみたい、それは本当に楽しそうと感じている。
ただただ自分のためだけに、コースを読みながら翻訳をしていくこと、それは半端なくわくわくするし、とても贅沢な時間に思う。
今年は、少しずつでもまずは原文に慣れることをしたい。
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