2016年1月11日月曜日

恐れという選択

今日、急遽決断してクラスに参加してみた。

話を聞いたり瞑想をする中で、自分が恐れの塊により、感じることを閉ざすことを選択しつづけていることに気づいた。

恐いから殻に閉じこもり、自分でも気づけないほどの分厚い覆いで隠してしまった。

そこから脱出したいという意志力を持てないでいたけれど、その状態は、恐れにも気づかないでいられる代わりに、わき上がるような喜びや真実の自己の声さえもまったく聴こえなくする選択だと知った。

これほどまでに恐れているのなら、どうかそこからは脱出したいし、恐れを感じたとしても、それが幻想だと知る選択をしたい、心からそう思う。

今はまだ、感じられる部分と分厚いベールによってぼんやりした気持ち悪い部分がある。

それでも、私は恐れにより防御しているその恐れはまず聖霊に預けよう、預ける意志力をもとうと決めた。

そして、久しぶりに怒りそのものがしばらくでてきて、意味付けのないただの怒りが放出されることは、ただただ気持ちよかった。

もう一度聖霊の手をとって歩みたい、心からそう思う。

自我のベールによってそれが感じられなく空しく響いたとしても、信を置きつづけることを今日自分に誓う。

そして、一年前と比べるとそのコミュニティがじわじわと変わりつつあることを目にし、「観たい」というまなざしや癒しの半端ない影響力に、私もそうありたいと思う。

なんだか知らないけど、受け入れられちゃってたことにもびっくりだ。

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